(2008.4.13)


   

 

     

河津桜を撮り終えて、伊豆半島の南部を横断し、西伊豆へ回りました。

伊豆半島は海あり山あり、風光明媚な景勝地が多く、写材には事欠かないのですが、とくに西伊豆は東伊豆に較べて、今もって交通が不便なことから、昔の佇まいを残している文物が多く、興趣が尽きないところです。

そこで、今回は長いあいだ「取材予定地リスト」に上がりながら、なかなか訪れる機会に恵まれなかった松崎町の一帯を撮影してまいりましたのでご覧いただきます。

松崎町は、右の地図でご覧の通り、西伊豆というより南伊豆といった方が良いような場所に位置し、鉄道も高速道路もないため、沼津から車を飛ばしても2時間は掛かる僻遠の地です(松崎の方には申し訳ありませんが…)。

それだけに、あまり俗化されていない景観や、かつては風待ち/潮待ち港として賑わった町並みや、物資の集散地として栄えた遺構を随所に見ることができ、歴史好きには堪えられないスポットです。

それではご案内します……
この建物は旧「岩科学校」といって、松崎町の市街地から岩科(いわしな)川に沿って2キロほど入ったところにある伊豆地区最古(1880(明治13))年完成)といわれている「小学校」で、1975(昭和50)年に国の重要文化財に指定されています。
当地では古くから教育振興の志が高く、総工費の4割が地元の寄附で賄われた、とあります。正面の扁額は時の太政大臣三条実美公の書で、その上に見える龍の彫り物は、当地の名工、入江長八(後述)の手になるものです。
建物は当地の「なまこ壁」(後述)を活かした社寺風建築に、バルコニーなどの洋風デザインを取り入れた独特の意匠で、「伊豆のあけぼの」に向けた先人の気風を今に伝えています。

岩科学校と同時代の建物としては、長野県松本市にある旧「開智学校」(1876(明治9)年完成)<重要文化財>が有名ですが、こうした建物を見ると、当時の人々の教育に対する熱い思いに頭が下がります。

今は、政治も経済も文化も、当然のように「中央」に集まっているが、明治のこの頃までは、「地方」の独自性が光彩を放っていた、という趣旨のことを、司馬遼太郎先生が「この国のかたち」で書かれていますが、まさにそうした時代を形で見るような気がします。

ちなみに、旧「岩科学校」と旧「開智学校」、さらに愛媛県宇和町(現、西予市)の旧「開明学校」(1882(明治15)年完成)<重要文化財>の3校は、こうした誼で姉妹館を提携しています。

旧「開智学校」
(C) Wikimedia Commons
当時の教室風景も再現されていて、妙にリアルなのでドキッとします。
昔の学校の廊下というのは、こういう風にピカピカだった記憶があります。
この和室は2階の一室で、案内書によれば作法や裁縫の授業に使用された、とあります。床の間は昇る朝日の赤、脇床は松の緑を配しているそうですが、ご覧いただきたいのは四囲の欄間に描かれた千羽鶴です。

これは当地出身の左官の名工、入江長八(1815年〜1889年)によって描かれた「鏝絵(こてえ)」です。鏝絵というのは、左官職人が漆喰(しっくい)と鏝だけで作り上げたレリーフに彩色を加えたもので、かつては母屋や土蔵の外壁等に装飾として施されたものですが、長八はこれを芸術の域にまで昇華させた第一人者といわれています。

欄間の鶴は一羽一羽その姿かたちを変えて、日の出を目指して飛翔する様子が描かれています。それにしても、こんな素晴らしい部屋で、作法や裁縫を学んだ子供達は幸せですなぁ。
上の写真は2階のバルコニーに描かれている鏝絵です。(長八の作かどうかは不明)
左の写真は、旧「岩科学校」の裏隣にある現在の岩科小学校ですが、この学校も昨年(2007年)3月をもって松崎小学校に統合され、今ではこちらも旧「岩科小学校」となりました。
松崎の市街地に戻って、名物の「なまこ壁」を見学しました。なまこ壁というのは、壁面に四角い平瓦を並べて貼り、その継ぎ目に漆喰(しっくい)をかまぼこ型に盛り上げて塗ったもので、白く盛り上がった形が海鼠(ナマコ)に似ているところから(!)その名が付いたとあります。

なまこ壁は昭和初期までは全国各地で見られましたが、とくに西からの季節風が吹きつける当地では、防火・防災のうえからも、なくてはならない建築様式として定着しました。現在では、白壁も土蔵も、そしてこれらを支える左官職人も少なくなったため、町をあげて修復と保存に取り組んでおられるようです。上の写真(2枚)は、かつて薬問屋だった近藤家の母屋と倉庫で、江戸時代末期の建築といわれています。ちなみに、当家の近藤平三郎氏(1877年〜1963年)は近代薬学界の泰斗で、1958(昭和33)年に文化勲章を受章されています。

こちらは「依田家」の建物で、市内を流れる那賀川沿いに、ひときわ辺りを払っています。先代の四郎氏は21年間(!)町長を勤めた方だそうです。

この建物は、明治時代に呉服商として栄えた「中瀬邸」で、現在は町が買い上げて、なまこ壁の土蔵と母屋が公開されています。下の写真は当時の「店の間」を再現したもので、このほか奥座敷は休憩所に、離れは漆喰技法に関するギャラリーになっていて、左官道具などが展示されています。

土蔵の扉にも見事な鏝絵が施されています。向かって左扉には虎が(右の写真)、右扉には龍が(下の写真)描かれていますが、これは後年になって制作されたもので、長八の作ではありません。
今回は期せずして観光案内のような写真ばかりになってしまったので、最後に当地の景勝地である「千貫門」をご覧いただいてお仕舞いにします。この辺りは松崎町雲見(くもみ)地区といって、大小の奇岩が断崖に迫る西伊豆きっての絶景ポイントです。手前の大きな岩礁が千貫門で、高さ30メートル余りの岩の中央に、高さ15メートル幅10メートルの海蝕洞門が開いていて、千貫文に価する奇観というところからその名が付いたといわれています。画面右上に富士山がボンヤリと見えていますが、直線距離で70〜80キロ離れているため、よほど視程が良い日でないとハッキリ写りません。

さらにおまけです。帰路、千貫門から少し北上した西伊豆町にある「黄金崎」に立ち寄りました。ここは西伊豆の夕陽スポットとして有名な場所で、N's TOWNでも一度ご紹介したことがあるので、ご記憶の方もおられるかと思います。詳しいことはこちらをご覧ください。



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