(2017.2.19)

 

 

 

国道156号は岐阜から長良川を遡上して北上し、ひるがの高原で分水界を越えたあとは庄川に沿って下り、高岡(富山県)へ至る全長213kmの路線で、司馬遼太郎の「街道をゆく」でもとりあげられた歴史街道です。

とくに、庄川の深い谷あいを縫うように飛騨から越中へ下る途中には、白川郷や五箇山といった合掌造りの村々が連なり、「白川街道」とも「飛越峡合掌ライン」とも呼ばれています。

東海北陸自動車道が全通してからは通行量も減少しましたが、この区間の高速道には5kmを超す長大トンネルが点在するため、危険物積載車両は国道へ迂回せざるを得ないので、いまなお幹線道路として機能しています。

今回はそんな白川街道に沿って、荘川から白川郷、五箇山を周遊してきたので、その様子をご覧いただきます。


まずは中央道を一路西進し、松本インターから国道158号に下り、安房峠(乗鞍岳と焼岳の鞍部)を長いトンネル(4,370m)で抜けて高山へ向かいます。
諏訪湖まではいいお天気でしたが、塩尻まで来るとすっかり雪空になってしまいました。
安房トンネルのあたりは標高が1,3001,400mあるため一面の銀世界です。シッカリ除雪されているので走行に支障はありませんが、降雪のため轍が消えていて戸惑うことがあります。

諺では「前車の轍」というのは踏んではいけないことになっていますが、雪道に限っては踏み外さないように進みます(笑)。

高山から東海北陸道の荘川インターを経て国道156号へ下り、いよいよ白川街道を北進します。

 
御母衣ダムを過ぎて少し行ったところに旧遠山家の大きな合掌造りの屋敷があり、国の重文に指定され民俗館として公開されてます。

この建物は1935(昭和10)年にブルーノ・タウト(Bruno Taut)が調査して、「合掌造り」というものが初めて世界に知られるきっかけとなった建物といわれています。

現在、合掌造り集落は世界遺産に登録され、白川郷の荻町、五箇山の相倉と菅沼の3集落がその対象になり、この建物がある御母衣地区は含まれていませんが、実は「すべてはここから始まった…」いうことになります。

特徴的な茅葺き屋根は去年40年ぶりに葺き替えられたばかりで、クッキリとした輪郭を雪空に浮かび上がらせて見事です。

建物は4層になっていて、1、2階部分を見学することができます。
2階では当時の生活用具や養蚕道具が展示されているほか、合掌造りの構造を間近に眺めることができます。
屋根の構造体は藁縄とマンサクの若蔓だけで組まれていて、これで100トンを超す屋根重量+冬の積雪重量を支えています。
また、床板にはところどころに竹を編んだすだれ状の開口部が設けられていて、1階の囲炉裏の暖気や煙が上層の小屋裏へも回るように工夫されています。
1階は居間や客間などの生活空間になっていて、当時の暮らしぶりをしのぶことができますが、圧巻は囲炉裏の上の「火天(ひあま)」と呼ばれる天棚にビッシリと堆積した煤の塊です。
既に硬く炭化して銀色の輝きさえ放っています。

全体が煤で黒光りした部屋を進むと、一番奥が仏間になっていて、金色燦然としたお仏壇があらわれます。
北陸地方は古くから浄土真宗が盛んなところで、全体にお仏壇のつくりは荘厳の一語です。ちなみに、浄土真宗ではお仏壇の飾り付け自体を、「荘厳(しょうごん)」や「お荘厳」と言います。

お仏壇は全体の幅が2間はあろうかと思われる見事なもので、お仏壇の左手前にご家族銘々のお数珠掛けが置かれています。

白川郷へやって来ました。 
今回の主題の「ライトアップ」が始まるまでのあいだ、白川八幡宮、かん町、明禅寺などの定番スポットを回ります。
春節休暇(1/27〜2/2)を外したつもりでしたが、聞こえてくるのは中国語ばかりでした。
それでなくてもライトアップの期間中は大混雑しますが、とくに集落を一望する城山展望台へは、いたるところで長蛇の列です。

展望台については、事故防止のため種々の規制が実施されているので、行かれる方は事前に最新の現地情報をシッカリ確認されることを強く薦めます。
あいにくライトアップが始まる頃には降雪が強くなってご覧のような有様でした(涙)。

展望台から下りてきて集落内を少し撮影しました。
白川村の合掌造り家屋で一番大きな和田家です。国の重文に指定されています。
明禅寺の鐘楼門です。こちらは県の文化財に指定されています。

ライトアップは1時間半(18:0019:30)しかないので、大混雑のなかを無理して展望台へ上がるよりは、集落内での撮影に重点を置いた方が賢明というのが実感です。
…と同時に、混雑緩和の観点からも、もう少しライトアップ時間や、開催期間(今年は日・月曜日×3週=合計6日)が延長されてもいいなと思いました。

2日目は砺波方面から五箇山へ向かいました。五箇山も庄川沿いの集落で、白川郷から見ると下流方向になりますが、谷が狭くなっているせいか、一段と山深い印象を受けます。

白川郷は岐阜県(飛騨)にあって、かつては天領だったのに対し、五箇山は富山県(越中)にあって、かつては加賀藩の領地で、相互の往来は厳しく制限されていたとのことです。
城端の町から国道304号を南下し、五箇山トンネル(3,072m)を抜けたところに相倉(あいのくら)集落があります。ちなみに、五箇山トンネルが開通する1984(昭和59)年までは羊腸の険路を辿るほかなく、文字通り外界と隔絶された山里だったことが容易に想像されるようなところです。
相倉集落は庄川から少し離れた山沿いの傾斜地に23棟の合掌造り家屋が広がっています。
集落の裏手の高台(林道)に全体を俯瞰できる展望スポットがありますが、あいにく降雪が強すぎて眺望がいまひとつでした。
集落はこぢんまりした大きさで、絵になるところがたくさんあります。
また白川郷ほど観光地化されていないため、静かな散策を楽しめるのも嬉しいところです。
相倉集落から庄川に沿って雪の国道156号を10kmほど遡ったところに菅沼(すがぬま)集落があります。
国道の脇から全体を一望できるポイントがあって、庄川の畔にひっそりと佇む集落を俯瞰できます。 
菅沼集落は、庄川が大きく湾曲するところ、右岸からせり出した舌状の台地に、9棟の合掌造り家屋が肩を寄せるように集まっていて、世界遺産に登録された3集落の中で最も小さい集落です。 
 
 
こうした人里離れた山深い立地を「活かして」、加賀藩では罪人の流刑地としたほか、黒色火薬の原料となる煙硝(加賀藩ではあえて「塩硝」と呼んだようですが)の生産にも力を入れたなど、長閑な山里には似合わない物騒な歴史も残っています。
集落内には民俗館や塩硝の館があって、当時の様子を今に伝えています。
かつては様々な事情から庄川に架橋が許されなかったため、「カゴの渡し」と呼ばれる原始的な索道(↑)で川を渡っていたとあります。なんともスリリングなことですが、当時はこれが五箇山に13箇所もあって、実際に「篭渡」という地名も残っています。ちなみに、ロープは山葡萄の蔓(!)だったとのことです。




[ご案内]
かつて、N's TOWNでは「春の白川郷」も取材しています。よろしければ からご笑覧ください。