(2016.7.31)

 

 

 

前号では、礼文島で悪天に祟られて稚内へ舞い戻り、「倍返し!」(笑)を誓ったところまでご覧いただきました。

その後、日程調整を兼ねていったん道央の層雲峡まで退却、温泉に浸かりながら態勢を立て直すうちに、ようやくお天気も回復してきました。

そこで、今号では「後編」として、日程後半の小樽、積丹半島の様子と、復路のフェリーの様子をご覧いただくことにします。果たして「倍返し」は成ったのかどうか…。


後編は小樽からスタートです。

現在の北海道は、良い意味でも悪い意味でも、「札幌一極集中」といわざるを得ない状況で、近年ますますその度合いを強めているように見受けます。

しかし昔からそうであったわけではなく、明治から昭和の中頃までは、交通の要衝でもあった小樽が、石炭をはじめ農産物、海産物の集散地として発展し、さらに道内随一の国際商業都市として繁栄を極めていました。

先ずはそうした当時の小樽を偲ぶ遺構として、「鉄道」と「銀行」について少し寄り道したいのでお付き合い下さい。
小樽の中心市街地に旧国鉄「手宮線」の廃線跡が保存されています。手宮というのは小樽の北方にある港湾地域で、かつては石炭の積み出し基地がありました。
手宮線は函館本線の南小樽と手宮を結ぶ僅か2.8kmの路線ですが、そもそもは空知地方の幌内炭鉱で出炭した石炭を、手宮桟橋まで輸送するために建設された「官営幌内鉄道」(全長約90km)の一部なのです。
幌内鉄道は北海道で一番最初(全国でも3番目)に建設された「由緒ある」鉄道で、1880年(明治13年)に開通、1882(明治15)年に全通しています。その後、道内の鉄道網が拡充してゆくなかで、南小樽〜岩見沢の区間は函館本線に組み入れられ、両端の南小樽〜手宮と岩見沢〜幌内/幾春別の区間が、それぞれ手宮線、幌内線となりました。

鉄道の廃線は人口の減少やモータリゼーションの進行によるものが一般ですが、北海道の鉄道は炭鉱の消長と運命を共にしたケースが少なくなく、手宮線は1985(昭和60)年に、幌内線は1987(昭和62)年に、その歴史的使命を終えて廃線になりました。
ちなみに、幌内鉄道の両端、手宮には小樽市総合博物館が、三笠には三笠鉄道記念館が開設されていて、当時の車両や鉄道資料が保存されて公開されています。


小樽運河にかかる浅草橋から海を背にして緩やかな坂道を上がると、道路の左右に立派な石造りの建物が並んでいる一角があります。

これらは、小樽が国際商都として賑わった時代に軒を並べた銀行の建物で、日銀の小樽支店(注)を先頭に20行がこの一角に進出していて、別名「北のウォール街」(!)と呼ばれていたとのことです。(右地図ご参照)

ちなみに、前記の手宮線も「ウォール街」を横切っていて、最寄りに「色内(いろない)」という駅まで設置された時期がありました。

その後、日銀が札幌支店に統合されて閉店になったのをはじめ、(地元の銀行を除いて)各行とも撤退しましたが、現在これらの建物が小樽市の歴史的建造物に指定され、そのままホテルや商業ビルとして活用され保存されています。

(注) 1906年(明治39)年に小樽支店が開設されてから1942年(昭和17)年に札幌支店が開設されるまでの36年間、道内の日銀支店は小樽のみ(他に、函館、根室に「出張所」あり)でした。
(典拠:日銀
HP)
旧安田銀行(富士銀行を経て現、みずほ銀行)の建物(昭和5年築)で、現在はオシャレな割烹(!)になっています。


旧三井銀行(さくら銀行を経て現、三井住友銀行)の建物(昭和2年築)で、現在は「白い恋人」の石屋製菓が所有されています。


旧三菱銀行(東京三菱銀行を経て現、三菱東京UFJ銀行)の建物(大正11年築)で、現在は北海道中央バスの小樽運河ターミナルになっています。


旧第一銀行(第一勧銀を経て現、みずほ銀行)の建物(大正13年築)で、現在は御幸毛織のグループ会社が入っています。


旧横浜正金銀行(東京銀行を経て現、三菱東京UFJ銀行)の建物(昭和11年築)で、現在は日立の代理店の会社が入っています。


旧北海道拓殖銀行(後に破綻)の建物(大正12年築)で、現在はホテルヴィブラント小樽になっています。


日本銀行旧小樽支店の建物(明治45年築)で、現在は市の指定文化財に登録され、「金融博物館」として公開されています。
それにしても、当時の銀行が(日銀も含めて)皆んな小樽からいなくなっただけでなく、当時の行名を残しているのは(日銀の他には)一行もなく、なかには破綻して消えてしまったものもあるなど、この間の金融界とそれを取り巻く環境の激変にはあらためて驚くばかりです。


 北のウォール街から一筋運河寄りにある堺町本通りにも古い建物や小樽を代表する個性的な店舗が軒を並べています。
旧百十三銀行(後に北拓と合併)の建物(明治41年築)で、現在はアクセサリーなどの雑貨店になっています。

 
 
小樽港に「ぱしふぃっく びいなす」(26,594トン)が入港していました。新日本海フェリーのグループ会社である日本クルーズ客船が運航する客船で、「礼文利尻3泊4日のクルーズ」(123,000円〜540,000円)に出発するところでした。
 
「小樽運河」は小樽を代表する定番スポットで、一日中観光客が絶えません。この日もアジア方面から大勢来られていて、あたりは自撮り棒の嵐(笑)でした。
ウミネコの「フン害」が結構深刻です。

運河沿いの石造倉庫群は当時の姿のまま残されていて、レストランなどに利用されています。

夕暮れともなると散策路には63基のガス灯に火が入り、ライトアップされた倉庫群とともに、少し日本離れした幻想的な雰囲気に包まれます。
裕次郎が似合いそうなシーンですが、そういえば小樽には「石原裕次郎記念館」がありました。(笑)
ガス灯というのが意外に明るいものだと知りました。

小樽から積丹半島へは国道229号(通称「雷電国道」)が通じています。断崖の裾をなぞるルートのため落盤や崩落事故が多く、そのつどルート変更や線形改良が続けられてきた結果、「日本一トンネルが多い国道」といわれていますが、それだけに車窓からの眺めは格別で、この先の絶景へ向けて期待が高まるところです。

積丹半島には神威岬、積丹岬、黄金岬の3つの岬が日本海へ突きだしていて、何れ劣らぬ絶景ポイントですが、今回は時間の関係から、神威岬と積丹岬を回りました。

先ずは神威岬です。この種の場所にはお約束の「義経伝説」があります。ここにも義経とアイヌの娘との悲恋物語が伝わっていて、昔はこの門から先は女人禁制だったそうですが、現在は夜間や荒天時の規制線として機能しているようです。

尾根沿いに整備された遊歩道を歩いて、20分から30分ほどで岬の先端まで行くことができます。

遊歩道からは、日本海へ突き出た神威岬の雄大な景観や、断崖に咲くエゾカンゾウやハマナス、「積丹ブルー」と呼ばれる透き通った紺碧の海などの絶景を間近に眺めることができます。
水際に口を開けているのは「念仏トンネル」という史跡です。資料によれば、大正元年に神威岬灯台(現在は無人)の職員とその家族がこの付近で遭難、これを悼んだ地元の人々が手掘りで完成させたトンネルです。耶馬溪(大分県)の「青の洞門」のような話です。


岬の先には神威岩という岩礁が続いています。
たくさんのウミネコが気持ちよさそうに群舞しています。

次に島武意(しまむい)海岸へ回ります。駐車場からは何も見えませんが、狭い歩行者用トンネル(写真中央)を抜けた先に絶景が広がっていて思わず歓声を上げる、という心にくい演出になっています。

島武意海岸は神威岬と共に積丹半島を代表する景勝地で、1996(平成8)年には日本の渚百選にも選ばれています。
つづら折りの小径を伝って海岸まで下りることができます。
岩の入り江を意味するアイヌ語の「シュマ・ムイ」の通り、断崖絶壁に囲まれた浜辺が静かにひろがっています。
海岸には鰊番屋跡の石垣が残っています。ちなみに、先ほど通ってきた狭いトンネルは、ニシンを運ぶために掘られたものだそうです。


積丹といえばウニが名産で、いたるところで「ウニ丼」ののぼり旗が呼んでいます(笑)。評判の店もたくさんありますが、島武意海岸の入口にあるこちらの店もそのひとつで、採れたての生ウニは絶品でした。


島武意海岸の駐車場からトンネル手前の道を600mほど登ると積丹出岬灯台があります。ここまで足を伸ばす人は多くありませんが、海抜134mの高台に位置するため、ここからの眺望は島武意海岸に勝るとも劣りません。
…ということで、小樽の歴史に触れて、絶景の積丹半島を満喫して、絶品のウニ丼も堪能して、今回の日程をすべて終了し帰途につきました。


復路は日程の関係で苫小牧東港からの便に乗船しました。19:30に出港して、途中、秋田港に寄港して、15:30に新潟港へ到着するので、20時間かかることになります。
秋田港の港外で、北航便の僚船「フェリーしらかば」と反航します。北航便が離岸するのを待って入港、着岸する格好です。

秋田港には商船三井客船が運航する「にっぽん丸」(22,472トン)が入港していました。
大きな船をタグボートなしで定位置へピタリと着ける操船に感心します。

秋田港でも結構な台数のトラックが下船します。

秋田港を解纜、出港して一路新潟港へ向かいます。
礼文島での荒天が嘘のような晴天です。←しつこいですね(笑)
一週間ぶりに新潟港へ戻ってきました。


さて「倍返し」は成ったのかどうか…
晴天が戻った小樽、積丹では初夏の北海道を満喫して少しは溜飲を下げることができましたが、
やはり撮り逃がした魚が大きかっただけに、倍返しというわけにはいかず、
礼文利尻については来シーズン以降の「宿題」となりました。
いずれ出直して撮り直すことにします。

(笑) 

長々とご覧いただき有り難うございました。