(2016.7.10)

 

 

 

今回は「初夏の北海道」を取材してきたので、その様子をご覧いただきます。

今まで北海道へは飛行機で往復していましたが、今回は初めての試みとして、日本海をフェリーで往復してみました。

幸い往路復路とも好天に恵まれて快適な航海を楽しむことができ、急がない場合は船旅も悪くないな…、というのが実感でした。

今号では「前編」として、往路のフェリーの様子と、小樽から稚内を経て礼文島に至るまでの様子をご覧いただくことにします。

小樽から稚内へはJR宗谷本線に沿って北上する国道40号がメインルートですが、今回は小樽から札樽道、道央道へ進み、深川から留萌道で日本海側へ出て、「日本海オロロンライン」を一路北上することにしました。(右の地図をご参照)

「日本海オロロンライン」というのは、留萌から稚内に至る国道232号〜道道106号の愛称で、日本海をずっと左手に見ながら走る実に気持ちのいい海沿いの道です。

ちなみに、「オロロン」という名前は、天売島に棲むオロロン鳥(ウミガラスの別名)に因んだものです。
往路は新潟港から小樽港まで新日本海フェリーの「ゆうかり」という船に乗りました。資料によれば、総トン数=18,229トン、旅客定員=892名、積載台数=トラック146台/乗用車58台とあります。
フェリーですから、(大型)トラック等の航送がメインですが、旅客輸送にも力を入れているようで、(客船並みとはいきませんが)船内もそれなりに気をつかった設備になっています。

車両甲板は上下2層になっていて、乗用車は主に上層へ搭載されるようです。

10:30に新潟港を出発して、翌朝の4:30に小樽港へ到着するので、18時間かかることになります。
秋田の沖合あたりで日没になります。

19:30頃、津軽海峡の西口あたりで、南航便の僚船「らいらっく」と汽笛を交わしながら反航します。

小樽からさっそく稚内へ向かいます。

このあたりは、江戸時代末期から明治の後半にかけてニシンの豊漁で栄えたところで、この道の駅も当時の「鰊番屋」をイメージした造りになっています。
日本海の水平線上に利尻富士が顔を覗かせていますが、まだ直線距離で120kmほどあるため、特徴的なシルエットでようやくそれと分かる程度です。画面右手前の人物は、北海道を踏査した探検家、松浦武四郎翁の像です。松浦武四郎と間宮林蔵の像は、北海道を回っているとあちこちで眼にします。

このあたりは一年を通じて日本海から北西の風が安定して吹き付けるため、いたるところで風力発電の設備を見かけます。

ここは稚内の近く、(天塩郡)幌延町というところにあるオトンルイ風力発電所です。28基の風車が3.1kmにわたって一直線に並ぶ様子は壮観です。 

資料によれば、ローターの直径が50.5m、支柱の高さが74mあり、最大出力は2,100kW(750kW×28基)、年間発電量は約5,000万kWh(約12,000世帯の消費電力に相当)とのことです。

オトンルイ風力発電所の少し北で北緯45度線を通過します。
モニュメントの台座の赤い線が北緯45度を示しています。ここまで来ると利尻島まで直線距離で約30kmのため、かなりハッキリと見ることができます。

遠方に見えているトンネルのような物体は…
地吹雪などの荒天時に避難する緊急用パーキングシェルターで、夏季の絶景からは想像もつかない、冬季の厳しい自然環境がうかがわれる当地ならではの施設です。
ちなみに、稚内からの復路で通行した国道40号では、立派なトイレや公衆電話、自販機まで完備した一回り大きいパーキングシェルター(上の写真)も見かけました。

このあたりは「サロベツ原野」といって、23,000haの広大な湿原が渺々と拡がるなかを、道道106号(オロロンライン)だけがまっすぐに伸びている…、ちょっと日本離れした雄大な景観を独り占めできるところです。
サロベツ原野には環境省のビジターセンターもあって、一周約1kmの木道を周回しながら湿原の観察や、周辺の景観を鑑賞することができます。
手前の白い花は「コバイケイソウ」です。
手前の黄色い群落は、ニッコウキスゲの仲間の「エゾカンゾウ」という植物で、6月下旬〜7月上旬にかけて道北一帯を可憐に彩ります。
さらに北進を続けると、笹や低木に覆われた丘陵が何処までもうねる地形が現れてきます。これは宗谷地方独特の地形で、氷河期の名残といわれています。
その宗谷丘陵が果てて海へ落ちたところが稚内で、町は丘陵の裾に沿って細長く伸びています。
したがって、町の後背にある丘陵に登れば、眼下に稚内の町並みを、その向こうには宗谷海峡を、さらにお天気の良い日には樺太を一望することができます。
正面に北防波堤ドーム(後述)が見えています。

丘陵の上は稚内公園として整備されていて、「氷雪の門」をはじめ樺太ゆかりのモニュメントをたくさん見ることができます。
礼文島行きの最終フェリーが出港していきます。

 
樺太の豊原にあった樺太師範学校の同窓生による記念碑です。

 1968(昭和43)年の両陛下行幸啓記念歌碑です。

また、公園の背後の丘陵には航空自衛隊の基地があって、対空警戒用レーダーを運用しています。ちなみに、同種のレーダーは、我が国の縁辺部分28箇所に配備されていて、領空侵犯機などの監視を行っています。
ノシャップ岬はカタカナで記されることが多いですが、正式には「野寒布岬」という漢字名で表記します。
根室半島の突端にも「納沙布岬」というのがあって、こちらは「のさっぷみさき」と読みます。どちらも「岬があごのように突き出たところ」という意味のアイヌ語の「ノッ・シャム」が語源で、両者を区別するために読みを変えて別字を当てたと言われています。このように、北海道の地名は、アイヌ語の「音」に漢字を当てただけなので、地名の由来と漢字の意味はまったく関係がありません。

野寒布岬に建つ稚内灯台です。宗谷岬灯台とともに、我が国の北辺を照らす大切な灯台です。一般に灯台は白一色が多いですが、北海道のそれは雪景色の中で視認性を高めるため、赤白や黒白に塗り分けられているものが多いようです。

かつての「稚泊連絡船」(稚内港〜樺太・大泊港)の桟橋を波浪から守るための防波堤ドームです。
長さ427m、高さ約14mあり、ドーム状の形態と70本の柱列群による独特の意匠から、北海道遺産に指定され保存されています。
稚泊連絡船桟橋のあった北埠頭は、戦後は礼文利尻行きフェリーのターミナルになり、フェリーターミナルが中央埠頭へ移転したあとは、稚内海上保安部の巡視船係留岸壁として使用されているようです。写真の巡視船は、2014(平成26)年1月に就役したばかりの「れぶん」(1,250トン)です。
利尻島からのフェリーが帰ってきました。

ノシャップ岬の南方から日本海に沈む夕陽を眺めて無事に初日の日程を終了しました。

…ということで、清々しい晴天に恵まれて快調に滑り出した今回の北海道旅行でしたが、礼文利尻へ渡るタイミングを狙ったように、2日目から980hPaという台風並みに発達した低気圧が接近して停滞し、道中は一気に大荒れの様相を呈してきました(笑)。

(C) ハートランドフェリー(株)
ともあれ、とりあえず予定通り礼文島へ渡ることにします。

礼文島へは、学生の頃にリュックを背負って北海道を周遊して以来、ほぼ半世紀ぶり(!)の訪問になります。

当時はオンボロ船(注)にひどく揺られた記憶がありますが、現在はハートランドフェリー社が3,000トンクラスの新造船を運航していて、乗り心地も船内設備もすっかり一新されていました。

(注) 旧い資料をググってみると、当時は500トンクラスの小型船が運航されていました。
礼文島では、だんだんひどくなる雨空の下、北端のスコトン岬と西岸の澄海岬を頑張って回りました。
見頃を迎えた花々がかろうじて彩りを添えてくれましたが、このお天気では紺碧のはずの海も鉛色に沈んで台無しです(涙)。
白い花は「エゾシシウド」という植物です。
ここは西海岸の澄海(すかい)岬というところで、北端のスコトン岬は行き止まりになった岬に「最果て感」が漂うのに対して、ここは断崖に囲まれた深い入り江に「秘境感」がいっぱいです。
お天気が良ければ、(文字通り)コバルトブルーに「澄んだ海」が見下ろせるところですが…(悔)。
紫の花は「チシマフウロ」です。
「センダイハギ」です。
「レブンシオガマ」です。
翌朝(3日目)、利尻島と香深港(礼文島)の様子です。天候はさらに悪化して、港外の海面には白波が立ち始めています。
この日は礼文島の南端を散策してから午後のフェリーで利尻島へ渡る予定でしたが、午後のフェリーが全便欠航と決まったため、最悪、礼文島に足止めされる可能性も出てきたことから、急遽、朝一番のフェリーで稚内へ舞い戻る羽目になり、残念ながら、今回、利尻島は割愛せざるを得ませんでした。
このため、礼文利尻では予定していた日程の半分も消化できず、前掲の地図に×印をつけた箇所が次回以降の「宿題」となりました。

稚内へ戻っても風雨は収まらず、宗谷岬まで行ってみましたが、強い風雨のため車外へ出ることもできず、それでも懲りずにやってくる観光バスを、半ばやけくそで(笑)、車内から撮ったのが右の写真です。

…ということで、今回の主題でもある「礼文利尻周遊」を狙い撃ちされぶち壊しにされた格好ですが、態勢を立て直して日程後半の小樽、積丹半島で挽回を図ることにしたので、その様子は7月31日に更新予定の「後編」でご覧ください。
わざわざ北海道まで来てこのまま引き下がるわけにはいきません。