(2013.2.3)


   

 

 

 

今回は最終回、ポルトガルをご覧いただくことにします。




スペイン最後の訪問地セビージャを後に、国境を越えて、ポルトガルのエボラという町まで300kmほど西進します。

国境といっても、
EU加盟国(正確には、シェンゲン協定加盟国)相互間の移動はフリーパスなので、「県境」のような標識(右の写真)があるだけで、バスはノンストップで通過します。

管理人のように、同じ国(中国←→香港)なのに厳密煩雑な入出国手続きに散々つき合わされてきた者には、「国境をノンストップで通過」なんて夢のようです(笑)。

ただし、こんなに近く隣接しているのになぜか時差があって、スペインからポルトガルへ入る場合は、時計を1時間遅らせます。ちなみに、(西)ヨーロッパ大陸ではポルトガルだけが、イギリスと同じ
UTC+0時間です。

たしかに、ポルトガルはヨーロッパの西端で、経度的にはそうかもしれませんが、世界には、政治的・経済的な思惑から、意図的に時差線を大きく歪ませている国や地域もあるわけですから、こんなに往来が盛んな国同士で、そんなに律儀に時差を設けることもないのに…、と思います。
車窓に流れる風景は、それまでのオリーブ畑から、何もない草原に変わり、ときどき現れる特産のコルク樫の樹林が、ポルトガルに入ったことを告げています。

エボラはローマ時代からこの地方の中心として栄えたところで、コリント様式の神殿跡や、1584(天正12)年に日本からこの地を訪れた天正遣欧少年使節団(当時13〜14歳)ゆかりのカテドラルなどが、一つの城壁の中に点在して、その全体が世界遺産に登録されています。

石畳がきれいな「10月5日通り」です。土産物店やレストラン、カフェが並んでいて、コルク細工や絵タイルが特産のようで、コルクのカバンや靴(!)というものありました。
町の中央にあるジラルド広場にはオープンカフェがイイ感じです。
画面左手の赤い三輪車は、ポルトガル名物の「焼き栗」売りです。たしか、一袋(12個入り)2ユーロ(約200円)でした。とても世界遺産の町とは思えない、この長閑なゆったりした雰囲気はとても和みます。

サン・フランシスコ教会の内部です。ポルトガル独特の絵タイル(アズレージョ)で壁面が飾られています。こには、有名な人骨堂がありますが、おぞましいので入りませんでした。この教会も世界遺産に登録されています。
エボラから更に100kmほど走ると首都リスボンに到着します。テージョ川に架かる「4月25日橋」という全長2,277mの吊り橋を渡ってリスボン市街に入ります。この橋は、革命記念日(1974年4月25日)を記念して名付けられたもので、下を流れるテージョ川は、トレドで眺めたタホ川(上編所収)の下流になります。おりから、大西洋の向こうに夕焼けが広がっていました。



ロカ岬というのは、リスボン市街からバスで小一時間ほどのところにある、ポルトガル最西端の岬です。ポルトガルの最西端ということはヨーロッパの最西端で、ひいてはシベリアへ連なるユーラシア大陸の最西端ということになります。

北緯38度47分、西経9度30分、高さ140mの断崖の上には、ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイスの詩文を刻んだ石碑がポツンと建っているだけで、あとは渺々たる大西洋が眼前に広がるのみ、という何とも雄大で、いかにも地の果てといったところです。
「突端マニア」(笑)の管理人としては、ずっと前から機会があればぜひ行ってみたかった場所で、今回の旅行の目的のひとつといっても過言ではないポイントでした。

世の中に岬と名のつくところは無数にありますが、ロカ岬の魅力は何といっても「ユーラシア大陸の最西端」というスケールの大きさにあります。

そしてそれを何よりも雄弁に物語るのが、石碑に刻まれたあの有名な一節、「ここに地果て、海始まる」(
ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA)です。
管理人は、原典にあたっていないので、本来の意味を知りませんが、

「どんなに果てしないように見えることでも、必ず始まりがあって終わりがある。そして、終わりは必ず次の始まりにつながっている。人生の節目にあたっても、それまでのすべてを糧に、新しい一歩を踏み出す勇気が必要。」

といった風に勝手に解釈しています。

ちなみに、わが国では、宮本輝さんの「ここに地終わり海始まる」という小説で有名ですが、こういった話とは些かストーリーを異にします。

近くのビジターセンターで、「最西端到達証明書」(A4版=5ユーロ(約500円)/A3版=10ユーロ(約1,000円))というのを発行してくれますが、早朝(8:30)のためまだオープンしていなくて入手できませんでした。

しかし、管理人としては、季節柄心配していたお天気に恵まれ、朝日に輝く草原と、その向こうに燈台を望む景観をカメラに収めることができ、本懐達成の心地でした(←大袈裟でスミマセン)。



ロカ岬から戻って、リスボン市内を「少しだけ」観光しました。上(↑)の写真は、ジェロニモス修道院の前を走る路面電車ですが、リスボンの名物は、こんなお洒落な電車ではなく、「坂の街リスボン」ならではのケーブルカー(右の写真)です。

ここは、マスターカードの
CMのロケに使われた場所で、テレビでご覧になった記憶があるかと思います。「プライスレス、お金で買えない価値がある…」というアレです。

リスボン市内は、早朝のロカ岬から戻ってきて、ランチまでの実質1/4日程度しか見学できなかったため、市の南西部の一角を回っただけで、ケーブルカーなどがある市の中心部は、バスの車窓からチラッと眺めただけになってしまいました。

それでも、その時は、ロカ岬を「征服」した達成感(笑)で、あまり気にも止めなかったのですが、あらためてガイドブックを読み返してみると、肝心なところはほとんど見過ごしていました。


(C) Wikitravel
ジェロニモス修道院は、ポルトガルの大航海時代を拓いたエンリケ航海王子と、ヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称えるために建築された壮大・華麗な建物で、1983(昭和58)年に世界遺産に登録されています。
ちなみに、その建築資金は、当初ヴァスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われたとのことで、名実ともに、大航海時代のポルトガルの栄光と栄華を今に伝えています。
ポルトガル史上最大の詩人といわれるカモインスの石棺があって、校外学習とおぼしき生徒達が熱心に先生の話を聞いていました。
この修道院の見どころのひとつが、中庭を囲む55m四方の回廊で、石灰岩のアーチに施された細密な彫刻は見事です。
テージョ川の両岸を結ぶ「4月25日橋」(前掲)です。2層になっていて、上段が6車線の道路、下段が複線の鉄道です。左手がリスボンの市街地になります。

このあたりはベレン地区といって、市の南西部、テージョ川の河口近くにあり、大航海時代にゆかりの建築物や遺構が集中しています。
有名な「発見のモニュメント」です。エンリケ航海王子を先頭に、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマ、フランシスコ・ザビエルなど、大航海時代を切り拓いた偉人達が、帆船をモチーフとした記念碑に立ち並んでいます。
モニュメント前の広場には、大理石のモザイクで描いた世界地図があって、ポルトガルによって発見された年号が記されています。ちなみに日本は、1541(天文10)年となっています。1543(天文12)年の種子島漂着と鉄砲伝来が日葡交流の始まりと思っていましたが、その2年前にポルトガル船が豊後に漂着していたようです。

ここは、市の北部にあるエドゥアルド7世公園です。斜面を上手く利用したフランス式の庭園で、眼下にひろがるリスボンの町並みと、その向こうにはテージョ川を遠望することができます。



リスボンの西30km、緑濃いシントラ山中に、かつての王室の夏の離宮や、7〜8世紀に築かれたムーア人の城砦跡などが点在していて、世界遺産に登録されています。
宮殿(シントラ宮)は山の中腹にあるため、眼下に広がる平原を一望することができます。

この部屋はカササギの間といって、天井には女官の数だけカササギが描かれています。カササギのうるさい鳴き声は、ヨーロッパでは「おしゃべり」を意味するそうで、口さがない女官達に対する、寓意を含んだ絵といわれています。
この部屋は白鳥の間といって、天井には27羽の白鳥の絵が描かれています。一人娘の王女が27歳でフランスの貴族に嫁ぐまで、誕生日に一枚ずつプレゼントしたといわれています。この部屋には日本からの天正遣欧少年使節団も訪れています。

この部屋は紋章の間です。 ポルトガルの名門貴族の紋章が天井一面に飾られています。 壁面は見事な絵タイル(アズレージョ)で飾られています。

シントラ宮から小型バスに乗り換えて、さらに529mの山頂まで上ると、もう一つの宮殿(ペーナ宮)があります。
この宮殿は、色といい形といい、様々な様式が混じり合った、いささか怪異な建造物です。「おとぎの国」と評しているガイドブックもありますが、管理人には悪趣味としか見えません。

もっとも、これを建築したのがフェルディナンド2世という王様で、あのノイシュヴァンシュタイン城を建築したバイエルン(ドイツ)の狂王=ルードヴィヒ2世の従兄弟と聞けば、その共通する「美意識」には頷けるものがあります(笑)。

ペーナ宮からの眺望は抜群で、眼下にムーア人が築いた城砦跡、平原の彼方にはテージョ川と大西洋を望む大パノラマを欲しいままにできます。
ここをクリックすると大きなパノラマ写真が見られます。
このペーナ宮も世界遺産に登録されて、今も海外からの賓客の応接に使用されることがあるそうです。


花の都パリ、霧の都ロンドン、水の都ベニス、といったように、国や都市にはキャッチフレーズのような言葉があります。

今回訪問したスペインは情熱の国といわれるのに対し、ポルトガルは哀愁の国といわれます。旅行会社のツアーにも、「情熱のスペイン・哀愁のポルトガル○○日間」などという名前がついていたりします。

大航海時代には世界各地に植民地を持ち、宗教や文化の面でも大きな影響力を及ぼしながら、国内にはこれといった産業が育たず、植民地の独立とともに国威は衰退し、今なおヨーロッパの片田舎に甘んじているポルトガルですが、過去の栄光が華々しかっただけに、「哀愁」という言葉がぴったりくるのかも知れません。

そんなポルトガルですが、一方で、古き良き時代の面影を随所に残すこぢんまりした街並みや、同じラテン系ながら、スペインとは一味違う、どこか東洋的ともいえる国民性などに、古くから何かと縁の深い日本人としては、妙に「郷愁」を覚える不思議な魅力の国です。

今回は、スペイン旅行の「おまけ」のような日程だったため、肝心のところはほとんど回れなかったので、次回再訪の折には、「哀愁と郷愁」をじっくりと味わってみたいと思います。


以上で「スペイン・ポルトガル紀行」を終わります。長々ご覧いただき有り難うございました。


上編をご覧になる場合はこちら →
中編をご覧になる場合はこちら →