(2009.4.12)


   

 

   

例によって、本編へ入る前に先ず呉の歴史を一瞥しておこう。

広島の南南東に位置する呉の街は、明治の初頭まではごく普通の半農半漁の寒村であったが、背後を三方の山で囲まれ、前面を江田島で外海から遮蔽され、十分な水深と良質な用水を確保できる天然の良港に着目して、海軍が1890(明治23)年に鎮守府(現、海自呉地方総監部)を置いたのが呉の近代化の始まりである。

ちなみに、呉では1902(明治35)年に既に市制が施行されている。

その後、1903(明治36)年に海軍工廠も設置され、最盛時にはドイツのクルップ(Krupp)社と並ぶ世界有数の造船・造機・造兵の拠点として発展した。その間、大和・長門・赤城・蒼龍といった主要艦艇を建造したほか、三菱重工(長崎)で建造した武蔵も、主砲は呉工廠で製造された。

その他、呉海兵団(現、海自呉教育隊)や海軍兵学校(現、海自第1術科学校)といった教育訓練施設も一帯に設置され、名実ともに「海軍の町」として繁栄を極めたが、それ故に先の大戦では数度にわたる大空襲を受け、戦前の歴史に幕を閉じることとなった。
戦後は残された旧工廠の設備を足掛かりに、造船や鉄鋼を中心とした産業がいち早く復興し、現在はIHIマリンユナイテッドが主に造船部と造機部の跡で、日新製鋼と淀川製鋼所が主に製鋼部と砲熕部の跡で操業中である。また、旧海軍のほとんどの施設は海上自衛隊が引き継ぎ、横須賀・佐世保・舞鶴(何れもかつての鎮守府)と並ぶ根拠地として、いまも「海軍」の面影を色濃く残している。

それでは本編を見てみよう……

呉基地に停泊中の護衛艦群です。今回の取材の前日には、ソマリア沖の海賊対策のため、護衛艦「さざなみ」(4,650t)と「さみだれ」(4,550t)の2艦がここから出港しました。

この船は「かみしま」という掃海管制艇ですが、昨年12月に老朽化のため除籍されたので、艦尾の艦名が消されています。掃海艇というのは海中の機雷を処分する船ですが、金属や磁気に感応する機雷があるため、(本艦も含めて)船体は木造が基本でしたが、最近ではFRP(強化プラスチック)も多用されているようです。

海上自衛隊の潜水艦部隊は、潜水艦隊司令部(横須賀)の隷下に2つの部隊が編制されていて、呉基地には第1潜水艦隊群が配置され、9隻の潜水艦が配備されています。呉基地の潜水艦桟橋は公道から近く、わが国で潜水艦を間近に見られる唯一のスポットです。
潜水艦は護衛艦と違って、艦首に艦番号が記されていないので、外観だけで艦名を特定することは難しいですが、艦橋の形状等から推測すると、手前の艦がはるしお型、奥の艦がおやしお型、と思われます。ちなみに、おやしお型は就役中の潜水艦では最新型で、はるしお型はその一世代前になります。
後方(右手)の潜水艦の艦橋に掲揚されている旗は、潜水隊司令が乗艦していることを示すものです。

これは、海上自衛隊呉史料館(愛称、てつのくじら館)に据え付けられた本物の潜水艦「あきしお」です。排水量2,300t、全長76.0mで……、といってもピンと来ないかと思いますが、ジャンボ旅客機の胴体とほぼ同じ大きさのものが目の前にあるので、かなりのインパクトがあります。

潜水艦というのは軍事機密のかたまりのような存在のため、退役した旧型艦とはいえ、こうして白日の下に曝してよいものかと心配してしまいます。とくに、スクリューは静粛性=隠密性向上の観点から極めて機密性が高く、かつてその加工機械の輸出を巡ってCOCOM違反に問われた企業もありました。

インターネットで調べたところ、展示艦のスクリューは、やはりダミーのものに換装されているとのことでしたので、安心してアップで掲出します(笑)。ちなみに、艦体の特殊塗装も普通のペイントに塗り替えられていることや、発令所(司令室)の計器類も公開にあたって取り替えられていることなどが分かりました。

右の写真は潜水艦のトイレです。用の足し方は陸上のものと変わりませんが(笑)、海中で使用するため水の流し方が複雑で、慣れないと大変なことになりそうです。

中央の写真は乗組員のベッドです。艦内はとても狭いため、全員分のベッドがありません。当直が明けた者は、さっきまで非番の者が寝ていた生暖かいベッドへ潜り込むことになるため、
HOT BUNK(暖かい寝床)と呼ばれています。
わざわざ大きな写真でお目にかけるようなものではありませんが、艦内食の献立表が展示されていたのでご参考までに……。


大和ミュージアム(呉歴史海事史料館)に展示された戦艦大和の10分の1の模型です。三井造船玉野工場で建造・進水、呉市音戸町の山本造船で艤装、総重量27t、製作費用2億1千万円という代物で、「模型」というのも憚られる圧倒的な存在感で3階分の吹き抜けスペースを占有しています。

大和は館の正面入口方向へ艦首を向けて設置されているため、好天の日には外庭からの日差しでご覧のように逆光になってしまうのが残念です。

大和は戦況の変化に対応して改修に改修が重ねられましたが、展示の姿はほぼ天一号作戦(いわゆる沖縄特攻)出撃時のものといわれ、増備された対空火器が戦況の厳しさを物語っています。ちなみに、この「模型」は映画「男たちの大和」(2005年・東映)のCG合成素材としても使用されました。

主舵の奥にもう一枚の副舵がある面白い構造になっています。

戦艦金剛のボイラーの実物で、これが38基搭載されていました。金剛が近代化改装の際に撤去され、その後は海軍技術研究所、戦後も科学技術研究所(金属材料研究所)の暖房用として、平成5年まで使用されていた(!)という大変貴重なもので、国立科学博物館の重要科学技術史資料に指定されています。

館内に展示されている零戦です。この機体は1945年(昭和20)年に琵琶湖へ不時着したのを引き揚げたもので、説明によると250キロ爆弾が搭載可能な「特攻仕様」の62型で、軽快な小回りが特色だった初期の零戦とは既に別種のものになっていたようです。主翼前面の火器は左が13o、右が20oの機関砲です。



お隣の広島は、軍都としての戦前をすっかり否定し、「平和と祈りの街」として再出発したのに対し、呉では逆に旧海軍にまつわる近代化遺構を再発掘したり、大和ミュージアムやてつのくじら館といった「歴史・海事史料館」を開設したりして、(過去の歴史を封印してしまうのではなく)これらを観光資源として活用し、地域の活性化を図ろうとしているところに、地方都市のしたたかさを感じました。