(2009.3.29)


   

 

   

広島というのは数ある地方都市の中でも、明治の昔から「特別な存在」だったようである。1873(明治6)年、太田川の河口に拡がる人口8万人(現在は117万人)の小都市に「広島鎮台(後の第5師団司令部)」が設置されたのがその始まりである。

その後、日清・日露の戦役において、軍司令部の設置や戦時師団の編成が広島で行われ、大陸進出の前線基地として、軍都の地位を不動のものにしてゆく。またこれと並行して、軍需関連産業の集積が進み、兵站・輸送といった基地機能も整備されて、一躍日本有数の工業都市・近代都市へと発展した。

一方、教育分野でも広島の存在は大きく、1902(明治35)年に設置された(旧制)官立広島高等師範学校(後の広島大学)は、東の(東京)高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)とともに、斯界の歴史にその名を留めることとなった。

ちなみに、(旧制)官立高等師範学校は、東京と広島の他には、(東京)女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)と奈良女子高等師範学校(後の奈良女子大学)の4校を数えるのみである。

こうして、軍都・学都として近代日本の発展を担った広島だが、地方都市にしては突出したその存在ゆえに、先の大戦において原子爆弾の標的となり、戦前の歴史に幕を閉じることになった。

……、というところまで「おさらい」をしたうえで、本編へ進むことにしよう。(エヘン!)


上の写真は、広島城内にある広島大本営跡です。日清戦争の陣頭指揮のため、1894(明治27)年9月から1896(明治29)年4月まで、大本営が広島城内(第5師団司令部)に設置され、明治天皇が滞在されたほか、臨時の帝国議会もここで開催されました。首都機能が一時的にせよ東京から離れた唯一の事例で、明治天皇の広島における皇居でもあったわけですが、原爆投下により建物は崩壊し、現在ではこうして礎石の一部が残っているのみです。
爆心地近くにある平和記念公園で、毎年8月6日には平和記念式典が開催され、原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられます。
原爆投下当時は広島県産業奨励館(右写真)と呼ばれていた「原爆ドーム」です。原爆はドームの東南160メートル・上空約580メートルの地点で炸裂、垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、外壁も爆心方向(写真向かって右側)が激しく損壊しています。
原爆ドームを囲むクスノキの大木です。原爆により70年間は草木が生えないといわれた焦土でしたが、小鳥が運んできた木の実がドーム内で芽を出したのを見つけた市民が、これをドームの周囲に移植して育て続けたといわれています。ちなみに、クスノキは広島市の木に制定されています。

平和大橋東詰交差点を俯瞰したもので、左右に伸びている大通りが、通称「100メートル道路」と呼ばれている平和大通りです。両側の緑地帯を含めて幅員が100mあって、市内を東西4kmにわたって横断しています。もともとは第二次世界大戦末期に空襲対策のため、家屋を強制疎開させた防火帯の跡地で、同様の「100メートル道路」は名古屋市内にもあります。

広島では今も路面電車が市民の足として活躍しています。路面電車というと、都電や市電といった公営鉄道というイメージがありますが、こちらは広島電鉄が運営する「私鉄」で、軌道線・鉄道線の総延長は35.1km、1日の輸送人員は約16万人で、ともに路面電車としては日本一の規模です。また、バリアフリー化や新型車の導入にも積極的に取り組んでいて、写真のおしゃれな電車はGreenmover max(愛称)といって、2005年から運転を開始している5両連接の超低床型路面電車で、グッドデザイン賞も受賞しています。


次号では今も軍都の面影を残す呉の周辺をご覧いただきます。