薬草は病気や怪我の民間治療薬として古くから用いられてきましたが、江戸時代には幕府直轄の御薬園(現、小石川植物園)が設けられて、薬草の研究や栽培が進みました。また各藩においても、領民救済や殖産興業の観点から、薬草園を設けたところが多く、会津藩においても、1670(寛文10)年に元領主の別荘があった地に薬園を開設しています。

さらに、3代藩主松平正容(まさかた)が、1696(元禄9)年に本格的な遠州流の池泉回遊式庭園に大改造を行い、ほぼ現在の姿になったといわれています。一時、明治政府に没収されましたが、その後、地元の人々の浄財により買い戻され、1932(昭和7)年には国の名勝に指定されています。

幕末において、会津藩は頑ななまでに徳川幕府に忠勤を尽くした結果、京都守護職として禁裏を護り、孝明天皇の信任を忝くした(それを裏付ける宸翰が現存)にもかかわらず、戊辰戦争において朝敵の汚名を余儀なくされ、その後も長く苦難と不遇の時代を忍ぶことになりました。

こうした歴史の恨事は、私たち他所者には窺い知れないくらい、会津の人々の心に深く刻まれ、後年まで氷解することがなかったといわれています。このあたりのことは、司馬遼太郎先生の旧著「王城の護衛者」に詳しいので、興味のある方は御一読をお勧めします。

この御薬園もそうした歴史の舞台となり、鳥羽伏見の戦いに敗れて帰国した藩主松平容保(かたもり)公は、城には入らず御薬園で蟄居されています。また、建物にも当時の刀傷などがあったりして、会津の人々にとっては、歴史の証人としてかけがえのない特別な場所のように見受けました。

園内にある東屋「楽寿亭」の欄干に残る戊辰戦争当時の刀傷だそうです。
上の写真の建物は、1928(昭和3)年に秩父宮勢津子妃殿下御一家がご来会の折に宿泊された東山温泉新瀧旅館別館が、1973(昭和48)年に改築されるにあたり、妃殿下ゆかりの御薬園に移築し、妃殿下のお誕生日が重陽の節句の9月9日あたることから、「重陽閣」と命名されたものです。

現在は一般にも公開されて、茶事や会席に使用されています。

秩父宮勢津子妃殿下は、戊辰戦争で「逆賊」の汚名を着せられた藩主松平容保公の孫にあたり、その皇室への入輿は会津士族の完全な復権と名誉の回復に繋がったことから、会津人の感激は並々ならぬものであったといわれています。

そのあたりのことが、建物近くにある顕彰碑(平成15年建立)の端正な碑文に刻まれていたので、右に掲載しておきます。

ちなみに、両殿下はお子様に恵まれなかったため、妃殿下のご逝去で秩父宮家は絶家となりました。