(2017.6.25)

 

 

 

今回は広島県福山市の「鞆の浦」(とものうら)を散策してきたのでご覧いただきます。

瀬戸内海は西の豊後水道と東の紀伊水道で外海とつながっていますが、潮の干満にしたがって両水道からから出入りする海流が、鞆の浦の沖合でぶつかったり分かれたりする結果、ここを境に海流の方向が反転するため、かつて瀬戸内海を往来する船は鞆の浦で潮目が変わるのを待ったことから、万葉の昔より「潮待ち港」として栄えました。

沿岸部と沖の島々一帯は風光明媚なところで、1934(昭和9)年に瀬戸内海国立公園の一部として、雲仙国立公園、霧島国立公園とともに、我が国最初の国立公園に指定されています。

鞆の浦の見どころは3つあります。「いろは丸事件」と坂本龍馬にまつわる史蹟、名産「保命酒」の醸造元に代表される古い商家、常夜灯や雁木などの港湾遺構です。
「いろは丸事件」というのは、1867(慶応3)年に坂本龍馬の海援隊が傭船した「いろは丸」(160トン)と紀州藩の「明光丸」(887トン)が笠岡沖で衝突、その後、鞆の浦へ曳航中に沈没した事件で、事故の経緯や沈船の調査状況、揚収品などが史料館に展示されています。

いろは丸事件のあと、紀州藩との賠償交渉のため坂本龍馬が当地を訪れていますが、既に幕府から命を狙われていたため、滞在中は廻船問屋枡屋清右衛門宅の屋根裏部屋に潜んだといわれていて、その隠れ部屋(↑)が公開されています。ちなみに、龍馬はそれから7ヶ月後に中岡慎太郎らとともに京都で暗殺(いわゆる、近江屋事件)されています。享年31。
この建物は江戸末期の商家で、明治以降は漁具、船具の製造販売会社だった、とあります。
旧福鞆信用金庫の本店(現、しまなみ信用金庫鞆支店)です。1938(昭和13)年築の鉄筋コンクリート造り2階建てですが、周囲の町並みにすっかりとけ込んで調和しています。
「保命酒」というのは味醂をベースに、もち米、米麹、焼酎を加味し、13種(16種とも)の生薬(↓)を浸した当地名産の薬味酒で、現在4軒の蔵元が醸造販売されています。ちなみに、「養命酒」というよく似た名前の薬用酒がありますが、養命酒は第2類の「医薬品」です。
海岸山千手院福禅寺は海を見下ろす高台に建つ真言宗の古刹で、境内は朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されています。
江戸時代を通じて朝鮮通信使の迎賓館として使用されたところ、本堂に隣接する客殿からの眺めが素晴らしいことから、「日東第一形勝」(日の昇る東の国で一番の秀景)と讃えられ「對潮楼」と命名されたとあります。
広い座敷を渡る潮風に吹かれながら絶景を堪能できる何とも贅沢な空間です。
目の前には弁天島が、その後には仙酔島が間近に望めます。

朝鮮通信使に関する史料がたくさん展示されています。

こちらは「太田家住宅」といって、保命酒の創始者である旧中村家があったところで、国の重文に指定されています。
幕末に三條實美ら七人の公卿が長州へ落ちる際に当家に宿泊したことから「鞆七卿落遺跡」として有名ですが、そのほかにも、西国大名が江戸参府の際の本陣として使われたほか、朝鮮通信使や琉球使節なども立ち寄ったとあり、海上交通の要衝ならではの足跡が残されています。
鞆の浦の古い商家のなかでも中心的な存在で、当時の屋敷構えがシッカリと保存されていて、なかなか見応えがありましたが(とくに、醸造蔵の海鼠(なまこ)壁は絵になる!)、なぜか撮影禁止でとても残念でした。

これは「雁木」(がんぎ)と呼ばれる船着き場で、潮の干満に関らず着岸、荷揚げができるよう石階段になっています。かつては鞆港全体を縁取るように雁木が巡らされていたようですが、現在はほとんどが埋め立てられて、常夜灯の周辺にその名残を見るのみです。
こういう風景をササッと水彩でスケッチできたらなぁ…、と思います。
鞆のシンボルともいえる「常夜灯」です。
港への出入を誘導する灯台で、1859(安政6)年の建造とあります。

こちらのお店は福山城から移築された長屋門が玄関になっていて、福山市の重文に指定されています。
店内には福山藩の御用酒であった証の「龍の看板」が鎮座しています。

(お断り) この画像は昼景を加工したものです。