(2016.1.17)

 

 

 

奈良というと、大仏殿、正倉院、興福寺の五重塔に猿沢の池、奈良公園の鹿などがまず思い浮かびますが、このほかにも渋い見どころがたくさんあって、今回はそうした隠れた名所のひとつ、通称「ならまち」と呼ばれるスポットをご覧いただきます。
「ならまち」というのは、(ざっくり言って)奈良公園の南に位置する旧市街地(上の地図で点線で囲んだ地域)で、江戸時代からの古い町屋が多く残る一角です。ちなみに、「ならまち」というのは通称で、「奈良町」という行政上の地名はありません。
 
まず、高畑町(たかばたけ)の界隈を散策します。ここは、奈良公園(飛火野)や春日大社の南側に位置し、大げさにいえば春日山原始林(世界文化遺産)の西麓にあたるところで、新薬師寺、白毫寺や奈良教育大学などがあります。
高畑の一帯は、かつては春日大社の神職が多く居住したいわゆる社家町で、ガイドブックなどでは高畑も「ならまち」の一角のように紹介されていますが、町屋が集まる「ならまち」とはかなり趣を異にします。

それはともかくとして、ここには志賀直哉の旧居というのがあり、以前から気になっていたので立ち寄ってみました。
志賀直哉は1929(昭和4)年から1938(昭和13)年までの足掛け10年間ここに居住しました。ちなみに、奈良の前は手賀沼畔(千葉県我孫子市)から、奈良の後は鎌倉へ、居を移しています。

建物は数寄屋造りを基調にサンルームや娯楽室といった洋間を付加したもので、白樺派の文人や画家たちが訪れた「高畑サロン」の時代を今に伝えています。

戦後は一時、米軍の住宅として接収されたり、その後も解体の危機に瀕したりしましたが、現在は国の登録有形文化財に指定され、学校法人奈良学園のセミナーハウスとして修復、保存されています。

(C) (学)奈良学園
1階の書斎です。北側の庭に面した落ち着いた空間です。
「暗夜行路」を完結させた2階の書斎で、南向きの障子窓には冬の日差しがたっぷりと降り注いでいました。
2階の客間からは三笠山(若草山)を遠望することができます。
手入れが行き届いた中庭では名残りの紅葉が見頃を迎えていました。 
 
ここは旧大乗院庭園というところです。
資料によれば、大乗院というのは平安時代に創建された興福寺の門跡寺院で、室町時代に本格的な庭園が築造され、明治の初頭まで南都を代表する名園として、美麗な姿を保っていたとあります。
その後、一部が奈良ホテルの施設になったり、小学校の用地になったりしましたが、1958(昭和33)年に国の名勝に指定されてから文化財として調査、整備が行われるようになり、現在は奈良市とJR西日本が所有し、(財)日本ナショナルトラストにより管理されています。
画面奥の瓦屋根の建物は奈良ホテルです。
「ならまち」の東端、奈良ホテルの南隣、国道169号の脇といった結構分かりやすい場所にありますが、意外に訪れる人が少なく、この日も週末の昼下がりながら「貸し切り」状態で、贅沢な時間を独り占めして堪能することができました。穴場です!

いわゆる「ならまち」のことは、ガイドブックやネット情報などで詳しく紹介されているので割愛して、ここでは、こうした古い町並みとその保存について管理人の感想を少し…。
いま、古い町並みを保存して観光資源として活用し、地域の活性化に役立てようという取り組みが、全国で行われています。文化庁が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に指定したものだけでも、43道府県90市町村で110地区に上ります。 
 
N's TOWNでも、今までに角館(秋田)、大内宿(福島)、佐原(千葉)、川越(埼玉)、妻籠宿(長野)、白川郷(岐阜)、近江八幡(滋賀)、今井町(奈良)、吹屋(岡山)、知覧(鹿児島)などを訪れました。
こうした「有名どころ」を見たあとで「ならまち」を訪れてみると、たしかに古い町並みが残ってはいるものの、なんとなく中途半端というか、期待外れというか、ちょっと違うな…といった印象を持たれる方が多いと思います。
たとえば、この(↑)場所です。ここは元興寺極楽坊(国宝)の門前あたりで、歴史的にも「ならまち」の中心のような場所ですが、ご覧のように電柱がひしめいて、絡み合った電線が容赦なく視界に入り、せっかくの景観を台無しにしています。そのせいかどうか、古い町屋をテーマにした写真で「ならまち」を撮ったものはあまり見かけません。他の重伝建地区と較べるとよく分かりますが、要するに「絵にならない」のです。
たとえば、京都東山の産寧坂は、1976(昭和51)年9月、重伝建地区のスタートにあたり、第一次選抜として指定された7箇所のうちの一つですが、石畳の道や風雅な建物から、植え込み、簾、暖簾といった造作物にいたるまで、そのまま映画のロケに使えるくらい「絵になる」ところです。
しかし見方を変えれば、「絵になる」というのはそれだけ人為的に「作り込まれている」ということであり、そうした景観を生業の糧にしている人はともかく、大なり小なりの負担と不自由を強いられているかもしれない一般住民のことを思うと、「絵にならない」というのも、これはこれで奈良らしくていいなと思います。
ちなみに、「ならまち」は重伝建地区には指定されていません。これには若干の経緯があったようですが、京都と並ぶ古都にもかかわらず、奈良市内に一箇所も重伝建地区がないというのも、奈良という町の気質をよく表しているように思えます。
志賀直哉は、「奈良」と題した随筆でその魅力について、次のように書いています。

兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残つてゐる建築も美しい。そして二つが互に溶けあつてゐる点は他に比を見ないと云つて差支へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいやうに美しい。
(「志賀直哉全集」第7巻所収、岩波書店)

奈良の魅力を「名画の残欠」と一言で言ってのけるところはさすがというほかありません。
また、「置土産」という随筆で、次のようにも書いています。

名画の残欠には残欠としての取扱ひがあるやうに奈良に対しても此心使ひは是非必要だと私は考へる。無闇な修繕、或ひは加筆はつつしまねばならぬ。(同上)

蓋し、箴言というほかありません。
いくら名画の残欠とはいえ、徒に欠けた部分を書き足して体裁を繕ったのでは、それは修復でもなく保存でもないのと同様に、古い町並みについても、「町並み保存」の名の下に、舞台の書き割りのような景観をいくら作り込んでも、観光事業の装置としては意味があっても、本来の修復や保存とは別物ではないでしょうか。
残欠は残欠としてあるがままの姿で、永い歳月に思いを馳せ、在りし日の姿を偲ぶのが、もっとも相応しい味わい方であり、奈良の魅力のひとつである「虚飾や奇を衒うことを何よりも嫌う」といった気風に通じるものがあるように思います。
幸い奈良には、古い町並でひと儲けしようというような世知辛い人が少なく、「ならまち」も必要以上に弄られることなく今日までその姿を保ってきましたが、今後、時代の流れの中で、気がつけばどこにでもある「小京都」になっていた、ということがないとも限りません。
奈良は管理人の郷里でもあります。奈良だけはこれからも「作り込み」や「書き足し」に走ることなく、いつまでも「偉大なる田舎町」であってほしいと願って已みません。



管理人謹吟