(2014.6.15)

 

 

中国山地を縦断し、日本海側の山陰地方と瀬戸内海側の山陽地方を結ぶ路線を「陰陽連絡線」といいます。西の方から順に見てみると、山口線(新山口〜益田)、芸備線/三江線(広島〜三次〜江津)、芸備線/木次線(広島〜備後落合〜宍道)、伯備線(倉敷〜米子)、津山線/因美線(岡山〜津山〜鳥取)などがあります。

このうち伯備線だけは、1972(昭和47)年の山陽新幹線岡山延伸に伴って改良工事や電化が進み、今も陰陽連絡のメインルートとして、ほぼ1時間に1本の頻度で特急列車が行き交っていますが、その他の路線については、高速道路の整備や沿線人口の減少などにより、利用者数の減少と採算の悪化に直面し、運転本数の削減や運行コストの圧縮といった「合理化」で凌ぎながら、何とか持ちこたえているのが現状ですが、いずれも先行きは決して楽観できる状況ではありません。

今回はそんな陰陽連絡線のなかから、「因美線」を取材してきたのでご覧いただきます。因美線は「因」幡の国(鳥取)と「美」作の国(津山)結ぶ全長70.8kmの路線で、今回はそのうち岡山県と鳥取県の県境付近、美作滝尾〜土師の区間について、開通当時そのままの姿を残す鄙びた駅舎や沿線の景観を取材してきました。

…と、何やらオープニングから脱線/ウンチク満載の気配が濃厚ですが、本編へ移る前に、因美線の来歴について、ちょっと「おさらい」しておきたいので、少々おつきあいをお願いします。

因美線は鳥取から智頭(ちず)までの「因美北線」が1923(大正12)年に、津山から智頭までの「因美南線」が1932(昭和7)に開通し、「因美線」として全通しました。最後まで残ったのが、県境の物見トンネル(全長3,077m)を挟む美作河井〜智頭の区間で、急勾配と急カーブの連続する難工事だったと記録されています。

その後、因美線は鳥取県東部と山陽地方や京阪神を結ぶ「陰陽連絡線」として所期の機能を発揮し、「みささ」(大阪〜鳥取)や「砂丘」(岡山〜鳥取)といった急行列車も設定され、最盛期には「みささ」が3往復、「砂丘」が5往復まで成長して大いに賑わいました。
しかし、1994(平成6)年に、山陽本線の上郡(かみごおり)から姫新線の佐用を経て因美線の智頭に至る「智頭急行」(全長56.1km)が、鳥取県など地元自治体による第三セクターとして建設され、陰陽連絡のメインルートは上郡〜智頭急行〜智頭〜鳥取にその座を譲ることになりました。

現在、京都/大阪方面からは特急「スーパーはくと」が、岡山方面からは特急「スーパーいなば」が、智頭急行経由で運転されていて、かつての※急行「みささ」は1989(平成元)年に、急行「砂丘」は1997(平成9)年にそれぞれ廃止になりました。(※急行「みささ」の廃止は中国自動車道の開通によるもの)

このように、鳥取〜智頭の区間(かつての、因美北線)は、智頭急行の開業にあわせて改良工事も施され、地方幹線へ「出世」したのに対し、津山〜智頭の区間(かつての、因美南線)は急行も廃止されて、ローカル線のまま取り残される格好になり、おなじ因美線といいながら、その明暗は大きく分かれることになりました。

ちなみに、鳥取〜智頭の区間は、最高速度が95〜110km(智頭急行線内は130km)なのに対して、津山〜智頭の区間は大半が65km(山間部を中心に25km、さらに雨天には15km!の区間も散在)という状況で、かつての急行運転当時は一体どうなっていたのか気になるところです。
現在、津山〜鳥取を直通する列車はなく、津山〜智頭の区間は単行のディーゼルカーが折り返し運転を行うだけの典型的な超閑散線区のため、今では「因美線の支線」といった格好です。

…ということで、前置きが長くなりましたが、「おさらい」はこれくらいにして、さっそく因美線探勝の旅へ出発進行!

先ず訪れたのが「美作滝尾」駅です。因美線の魅力は、鄙びた沿線風景もさることながら、開業当時そのままの姿で静かに佇む味わい深い駅舎にあります。
…どうですこの「鄙び具合」は(と、私が自慢するのも何ですが)、これだけ昭和初期の面影を残している駅舎というのは、なかなかありそうでないと思います。

美作滝尾駅は1928(昭和3)年の開業で、国鉄時代の駅舎が数多く残る因美線の中でも、当時の姿を最も忠実に残していて、2008(平成20)年には国の登録有形文化財に認定されています。

ここは津山から3つめの駅で、周囲はまだ田園風景が広がる長閑な所ですが、早くも線路の行く手には重畳とした山並みが立ちはだかっています。
駅の遠方で線路が不自然に曲がっているのは、かつてこの駅にはもう一本線路とホームがあって、列車の交換ができる配線になっていたためです。廃線跡は画面右端の野菜畑(笑)の部分です。

昔懐かしい出札口(切符売り場)からは、今でも硬券(厚紙の切符)が出てきそうです。その後、切符は裏に茶色の磁性材が塗布された軟券になり、さらにICカードが主流の現在では、切符自体を見かけることが少なくなりました。

何から何まで「木造」の駅舎は、かつては普通の景色でしたが、今となっては貴重な遺構です。

出札口の横にはお決まりの小荷物預かり口があります。かつては、ほとんどの駅で小荷物の取り扱いが行われていて、現在のように宅配便が普及する以前は、駅での小荷物の受け払いが唯一の物流手段でした。

木製の改札口(鉄道用語で「ラッチ」といいます)もそのままです。硬券にハサミを入れるパチンパチンという音が聞こえてくるような情景です。早くも田植えの終わった田んぼからはカエルの合唱です。そういえば、キレイに手入れされた田んぼもめっきり少なくなりました。

すっかりカドが取れて木目の浮き出たラッチ…、もうほとんど昭和のまま時間が止まったような風景です。

映画「男はつらいよ」(山田洋次監督)の最終作「寅次郎紅の花」(1995年)の冒頭シーンがここで撮影され、駅前にその記念碑が建っています。

ここは美作滝尾駅からさらに3駅進んだ所にある「知和駅」です。因美線もこのあたりから「山線」の色合いを濃くしてきます。

鉄道ファンというのは、「乗り鉄」や「撮り鉄」というように、いろんなジャンルに分かれますが、辺鄙なところにある「秘境駅」を専門に探訪している人達がいます。
この知和駅というのもそうした秘境駅にランクインしている駅で、ランキングは全200駅中134位とさほどの秘境でもなく、駅の周囲にもそれなりに人家はありますが、智頭方面(上り)の「始発」が12:10(!)というのは、たしかに秘境駅といわれるだけのことがあるなと納得しました(笑)。
ちなみに、秘境駅なるジャンルの「開祖」ともいえる牛山隆信氏のHPによれば、知和駅は秘境度=1、雰囲気=4、列車到達難易度=12、外部到達難易度=1、鉄道遺産指数=1、総合評価=19(134位)となっていて、今回、現地を実地訪問した印象からみても納得的です。 (各項目は20点満点×5項目=総合評価は100点満点)
知和駅を出た列車は加茂川に沿って中国山地に分け入っていきます。ここは知和駅と美作河井駅の間にある「松●(まつぼうき)橋梁」というところです。●は珍しい字で、「山」かんむりの下に「川」と書きます。全長94.83m、高さ約20mの鉄橋で、因美線きっての撮影ポイントでもあります。ちなみに、下を流れている加茂川は、津山で吉井川と合流し、児島湾で瀬戸内海に注いでいます。

「美作河井駅」は岡山県側の最後の駅で、1932(昭和7)年の因美南線竣工、因美線全通と同時に開業しました。さきほどの美作滝尾駅は石州瓦のような、赤みを帯びた釉薬瓦で葺かれていましたが、知和駅もこの美作河井駅もトタン屋根で、これはこのあたりの積雪と関係があるようです。また、窓枠の一部も残念ながら(といっては申し訳ないですが)、アルミサッシに交換されています。

駅の標高は333mあり、ここからさらに加茂川の支流にあたる物見川に沿って、狭い渓谷にはりつくようにして、峠の「物見トンネル」(全長3,077m)を目指して登っていきます。ちなみに、全長3kmのトンネルというのは、昭和初期にあっては、長大トンネルの部類に入ったものと思われます。

このあたりは、制限速度35kmが連続する区間です。たしかに急勾配と急カーブが連続する難行区間ではありますが、1997(平成9)年に急行列車が廃止の後は、十分な保線が施されていないようにも見受けました。薄い道床、すり減ったバラスト(砂利)、木製枕木に犬釘などからも、ローカル線の厳しさがひしひしと伝わってきます。

因美線を走る車両はキハ120形といって、JR西日本のローカル線向けコンパクトディーゼルカーとして、新潟鐵工所(現、新潟トランシス)により開発された車両です。国鉄時代の旧型車両に較べて2倍近いエンジン出力(330PS)があるので、少々の急勾配くらいは平気でグングン登りますが、急カーブと心許ない路盤に対しては徐行を余儀なくされます。

(C) Wikipedia
トンネルの坑口付近は比較的開けた場所で、周囲には水田などもあったりして、美作河井駅からここまでの急登が拍子抜けするような景観です。この写真は、坑口の直上を通る道路から、美作河井駅の方向を撮っています。ちなみに、美作河井駅〜那岐駅の間は10kmあって、上り(智頭行き)が15分、下り(津山行き)が17〜18分かかります。

資料によれば、美作河井駅はかつて木材の積み出し駅として賑わい、12〜13人の駅員が常駐した時期もあったとかで、山間の小駅にしては広い構内や、今もわずかに残る貨物線に往時の面影を見ることができます。

駅の構内には2007(平成19)年に掘り起こされた手動の転車台があり、山越えの重要な基地駅だったことが伺えます。ちなみに、この転車台は2009(平成21)年に経産省の近代化産業遺産に認定されています。

物見トンネルを抜けて鳥取県に入った最初の駅が「那岐(なぎ)駅」です。那岐駅も開業当時の面影を残す木造駅舎ですが、かつての駅務室が診療所として利用されているため、随所に改修が施されています。ちなみに、診療所の開院日は月2回(第2、4火曜日の14〜16時)だけです…。

ちなみに、那岐山(1,255m)を挟んで岡山県側にも「なぎ」という地名がありますが、こちらは(勝田郡)「奈義」町と書きます。

那岐駅のホームは、駅舎の裏手の一段高いところにあるため、屋根付きの階段を上ります。階段がすっぽり覆われているところをみると、意外に雪が深いのかもしれません。
那岐駅はホームが2面あり、列車交換が可能な配線になっています。また、当駅発の鳥取行きが早朝(6:54発)に1本だけ設定されていて、現在、「因美南線」から智頭以遠に乗り入れている「貴重な1本」です(笑)。

那岐駅からさらに1駅先にある「土師(はじ)駅」の近くで撮影した智頭行きの上り列車です。土師駅はJR西日本岡山支社管内で「最北の駅」になります。というのは、かつては那岐駅も土師駅も米子支社(鳥取鉄道部)の管轄で、美作河井駅〜津山駅が岡山支社(津山駅)の管轄で、県境が支社境界になっていましたが、1999(平成11)年に那岐駅と土師駅が岡山支社に移管され、智頭駅が支社境界になったという経緯があります。このことからも、津山〜智頭の区間は、おなじ因美線とはいいながら、もはや鳥取〜智頭の区間とは別系統の路線とみることができます。ちなみに、国鉄時代は因美線の全線が米子鉄道管理局の管轄でした。(本当にしつこくてスミマセン(笑)

那岐駅を出て物見トンネルへの登りにかかる津山行きの下り列車です。


今回は岡山県の県北、鳥取県との県境付近を中心に探勝しました。…と、文字で書くと随分の山奥のように聞こえますが、中国山地自体がさほど険しい地形でもないため、想像していたほど山深い場所ではありませんでした。
駅の近くには集落もあるし、線路に沿った道路も整備されているし、津山駅から各停でも約1時間しかかかりませんが、それだけに、こんなに「里の近く」にありながら、まるで時間が止まったように、昭和初期の姿がそのまま残されているのは驚きでした。
また、そのほとんどが無人駅にもかかわらず、イタズラや落書きがまったく見られないのみならず、掃除が行き届いてゴミひとつ落ちていないのも感心しました。よほど地元の人が大切に管理されているのだと思いました。
津山〜智頭の区間に閉じ込められたような運行/管理の現状では、なかなか将来にわたって厳しいものがあるかと思いますが、一鉄道ファンの感傷や我が儘としては、このノスタルジックな情景がいつまでも変わらないことを願って已みません。