(2014.4.13)

 

 

琵琶湖の東岸から北岸にかけては、戦国武将の栄光と悲劇の舞台になった名所旧蹟ばかりですが、今回立ち寄った近江八幡も、1585(天正13)年、豊臣秀吉の甥(姉の長男)で秀吉の養子である豊臣秀次が、四国征伐での軍功により43万石を与えられ、近江国八幡山に城を築き城下町を開いたところです。

豊臣秀次は晩年の奇行乱行から「殺生関白」と呼ばれたり、最後は一族もろともに粛正されるなど、良くも悪くも叔父であり養父である秀吉にその生涯を翻弄されましたが、領内の統治においては、今回ご覧いただく「八幡堀」の開削や八幡楽市楽座の設立などにより、近代商業都市としての礎を築いた「八幡開町の祖」として今も慕われています。
八幡堀は八幡山城の築城と同時に開削されたもので、琵琶湖から引いた全長6km、堀幅11〜18m、深さ1.4mの水路を巡らして、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡の街へ寄港させ、大津、堅田と並ぶ琵琶湖の三大港の一つとして賑わったとあります。

その後、鉄道を中心とした陸運の発達に伴って水運が衰微、八幡堀も次第に荒廃して埋め立ての計画も持ち上がるなか、市民を中心に復元保存の気運が高まり、ついには1982(昭和57)年に国土庁(当時)の「水緑都市モデル地区整備事業」に指定され、堀の石垣が復元され遊歩道や親水広場も整備されて、現在の姿に蘇りました。

八幡堀の一帯は舟運盛んな頃の江戸の水景を色濃く残していることから、鬼平犯科帳、銭形平次、大岡越前、水戸黄門、雲霧仁左衛門といった数多の時代劇のロケ地として頻繁に使用されているほか、写真やスケッチの題材としても尽きない魅力があるところです。
ここは「船橋」といって、八幡堀巡り遊覧船の発着場にもなっています。
ここは「白雲橋」といって、日牟禮八幡宮への参道に架かる橋です。
日牟禮八幡宮は(伝)131年創建の古社で、古くから近江商人の守護神として尊崇を集めてきた神社でもあります。
このあたりは「新町浜」といって、かつての荷揚げ場を復元したもので、伸びやかに広がる石段が印象的な、明るく開けた一角です。
堀割の奥に見える白い建物はシキボウ(旧近江帆布>旧敷島紡績)の工場で、カンバス(帆布)という産業用繊維資材を製造していますが、創業の地とはいえ、こういう風致な場所で操業するのは何かと苦労の多いことと思います。
堀の対岸の石垣の向こうは、もうシキボウの工場用地(!)です。

堀の両岸に伸びる堀端の小径も、八幡堀の景観を鑑賞するうえで欠くことのできない「小道具」です。

堀に沿って建ち並ぶ土蔵や倉庫は往時の繁栄を物語る貴重な遺構です。
この建物は、1877(明治10)年に旧、八幡東学校として建築されたもので、1994(平成6)年に修理復元されて、現在はビジターセンターやギャラリースペースとして活用されています。

このあたりは「近江商人」の本宅が軒を連ねる一角で、八幡堀とともに国の「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建)に指定されています。
この道路沿いの建物(↑の写真)は何軒にも分かれているように見えますが実は棟続きの建物で、西川甚五郎という方の本宅です。西川家というのは、寝具メーカーの最大手である西川産業の創業家です。

このほかにも、丸紅、伊藤忠、ワコール、住友財閥、トーメン、ニチメン、兼松(旧、兼松江商)、日清紡、東洋紡、東レなど、近江商人を始祖とする大企業がたくさんありますが、繊維卸商から総合商社へ成長発展した企業が多いのも、当時の時代背景がうかがわれて興味深いものがあります。
塀越しにのぞく「見越しの松」が、一帯の景観に何ともいえない風格と風情を添えています。



管理人謹吟