(2013.5.12)

 

 

福島県は北海道、岩手県に続いて3番目に広い県で、しかも東西に長く拡がっているため、地域によって気候も風習も文化も微妙に異なることから、県域を「浜通り」、「中通り」、「会津」の3つに分けて呼ばれることが一般です。

それぞれの地域を画しているのが奥羽山脈と阿武隈高地で、会津と中通りは旧岩代(いわしろ)の国、浜通りと中通りの一部(旧白河郡)は旧磐城(いわき)の国になります。

今回はそのうち、中通りの郡山周辺を周遊して、南東北の桜を取材してきたのでご覧いただきます。

今号は、いささか写真の枚数が嵩んでしまいましたが、予めご容赦のうえご笑覧を願い上げます。

関東地方の桜は、前号でご覧いただいた通り、例年に較べて1週間から10日早く開花しましたが、そのあとは、ほぼ例年のペースで推移し、今回取材した4月の上旬には、ちょうど中通りを桜前線が北上中でした。

ちなみに、今号をご覧いただいている5月の上旬は、松前や江差といった道南地方が見頃を迎えている「はず」です。

南東北の桜といえば、今ではすっかり「全国ブランド」になった三春の滝桜を思い浮かべる方が多いと思います。
三春滝桜は、郡山の東方、田村郡三春町にある、樹齢推定1,000年超(!)の紅枝垂れ桜で、1922(大正11)年10月に国の天然記念物に指定されています。
資料によれば、樹高=13.5m、幹周り=8.1m(地上高1.2m)、根回り=11.3mの巨樹で、四方に広げた枝から薄紅の花が、流れ落ちる滝のように咲き匂うことからこの名がついた、とあります。
たしかに、間近で仰ぎ見ると、その迫力は一見の価値あり、よく手入れされた見事な枝振りは、さながら滝となってほとばしる流水の趣があります。
一昨年(2011年)は、東日本大震災と原発事故による風評被害で、来場者が激減しましたが、その後は徐々に戻りつつあり、往時の水準(30万人)には届かないものの、今年は23万人まで復した模様です。
取材した日も、平日にもかかわらず大変な人出で、週末には最寄りの磐越自動車道/船引三春インターから、約8q、所要2.5〜3時間(!)の渋滞が発生したようです。

三春町とその周辺には、滝桜のほかにも、桜の名所がたくさんあって、そのなかには滝桜の子孫といわれるものもあります。
こちらは、「紅枝垂地蔵桜」という名前の枝垂れ桜で、滝桜の娘といわれる名木で、樹齢は約400年、濃い紅色の花や、長く枝垂れた枝ぶりが美しい木です。
蔵桜という名前は、木の下にある地蔵堂に因んで名付けられたもので、昔から赤ちゃんの短命や夭折の難を逃れるため、願をかけたと言われています。
ちなみに、当地には「枝垂れ桜花番付」というのがあって、滝桜と地蔵桜が東西の両横綱として並んでいます。



(C) 郡山観光交通(株)
こちらは、地蔵桜へ向かう途中にある「伊勢桜」という紅枝垂れ桜で、推定樹齢約250年といわれています。このあたり(三春町の南に隣接する郡山市中田町)には、こうした見事な一本桜が随所にあって、一日掛けても撮りきれないほどです。

こちらも中田町にある「不動桜」という名前の紅枝垂れ桜で、先の「枝垂れ桜花番付」では、東の大関になっています。不動明王をまつる不動堂の境内にあるため名付けられた桜で、樹齢は約350年といわれ、これも滝桜の子孫と伝えられています。
枝垂れ桜というのは、その姿かたちが何とも雅びで、通常の桜とは別種の趣があります。前号でご覧いただいた千鳥ヶ淵の桜が「豪華絢爛」とすれば、孤高の枝垂れ桜は「端麗優美」といったところでしょうか。
紅枝垂地蔵桜も不動桜も、すこし山道を入ったところにあり、大きい観光バスは通れないため、滝桜のような混雑はなく、山里を静かに彩る名木達をじっくりと観賞することができます。また、このあたりは滝桜より少し開花が遅く、今回取材したときも、8分咲きといったところでした。

ここからは郡山市内の桜になります。ここは開成山公園というところです。もともとは、郡山発展の礎となった「国営安積開拓事業」による歴史遺産というべき場所で、春には約1,000本の桜が咲き乱れ、県内でも有数の桜の名所として市民に親しまれています。
これは郡山公会堂です。1924(大正13)年9月の市制施行を記念して建てられたもので、大阪市中央公会堂がモデルと伝えられています。2002(平成14)年に国の登録有形文化財に指定されています。
ここは郡山市の南部、須賀川市との境を流れる笹原川の桜並木です。昭和30年代に笹原川の河川改修工事が行われたのを機に、地元住民が桜を植栽したのが始まりで、現在では川の両岸約2qにわたって桜並木が続き、笹原川千本桜と呼ばれています。
このあたりは観光地というより長閑な田園地帯が拡がっていて、映画のロケに使えそうなところがたくさんありました。

郡山を離れて二本松市へ向かいました。二本松市は郡山の北方、車で約1時間のところにあり、市街地の北には二本松城址があります。
二本松城は秋の菊人形展で有名ですが、春にも大小約4,500本の桜が妍を競い、さながら霞が懸かったような美しさから、霞ヶ城という別名がつけられています。
幕末から明治維新にかけて、東北地方の諸藩は戊辰戦争に敗れ、朝敵の汚名を蒙りました。「賊軍」となっても、忠と義に殉じた彼らの精神風土については、司馬遼太郎先生の著作に詳しいところですが、こうしたことは二本松藩においても例外ではなく、西軍との徹底抗戦により城内から家中屋敷まですべてを焼失し、慶応4年(1868)年7月29日に落城しています。
右(→)の写真は、「二本松少年隊顕彰碑」で、現地の案内板によれば…

慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。

…とあります。戊辰戦争における少年部隊といえば、会津若松の白虎隊が有名ですが、二本松においてもこうした悲壮な出来事があったことを初めて知りました。
現在、一帯は「霞ヶ城公園」として整備されていて、石垣と再建された箕輪門があるほか、山上の本丸には天守台や石垣が近年になって再構築されています。ちなみに、このあたりは菊人形展の会場になる三の丸跡地で、銅像の人物は、1873(明治6)年にこの場所に「二本松製糸会社」を設立し、我が国で初めての民間による機械製糸工場を興した山田脩翁だそうです。

山上の天守台からは残雪をいただく安達太良(あだたら)山を遠望することができます。
上(↑)の写真は、「智恵子台」と名づけられた展望台から眺める安達太良山で、傍らの大きな自然石に「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」という高村光太郎の詩文を刻んだ智恵子抄詩碑(右の写真)があります。ちなみに、二本松は智恵子の郷里で、かつて造り酒屋だった彼女の生家を復元した「智恵子記念館」が市内にあります。
桜と雪山のツーショットは、たしか「北国の春」のカラオケビデオで見たような…。(笑)

霞ヶ城公園内にある樹齢約300年のアカマツの巨木で、ちょうど傘をひろげたような形をしているため「傘松」と呼ばれています。推定樹齢約300年、樹高約4.5m、東西約14mあり、二本松市の天然記念物に指定されています。

霞ヶ城の南側にある丘陵に上ると、文字通り花霞が懸かった城山を一望することができます。
満開の桜に埋もれる箕輪門です。

今、桜の名所といわれるところは、どこもかしこも喧騒と雑踏の巷と化し(…という管理人も当事者の一人ですが)、ゆっくり立ち止まって観賞することもできない有様ですが、今回周遊した郡山周辺には、隠れた観桜スポットが随所にあって、南東北の遅い春を桜とともに堪能することができました。いつまでも、豊かな自然と静かな里山であってほしいと、勝手ながら願って已みません。

長々とご覧いただき有り難うございました。