(2013.1.20)


   

     

 

 

今回は、スペインの後半、中央部のラ・マンチャ地方から南部のアンダルシア地方をご覧いただくことにします。




マドリッドから高速道路を100キロほど南下すると、赤茶けた平原がどこまでも広がっています。このあたりは、カスティーリャ=ラ・マンチャ州といって、スペインの中央部にあたります。ちなみに、州都は前号でご覧いただいたトレドです。
「ラ・マンチャ」とはアラビア語の「乾いた土地」という意味で、私たちには「ドン・キホーテ」の舞台として馴染みの深い地名です。
前方に見えてきたのがコンスエグラの丘で、丘の上には9基の風車とアラブの古城が建っています。

丘の上に上がると、眼下にコンスエグラの町と、その向こうに広がるラ・マンチャの平原を一望することができます。

麓のプエルト・ラピセという町に、「ペンタ・デル・キホーテ」というレストラン兼土産物店があり立ち寄りました。
日本語で言うと「ドン・キホーテ亭」といった意味ですが、ツアー客御用達のような店で、駐車場には観光バスがずらりと並んでいました。



ラ・マンチャをあとに、コルドバへ向けて、更に南下を続けます。このあたりは、道の両側が一面のオリーブ畑です。…というより、オリーブ畑の中に道が通っている、といった方が当たっています。
オリーブオイルといえばイタリアのもの、といったイメージがありますが、実はスペインが生産量においても輸出量においても世界一位にランクされています。とくに、スペインの南部は、行けども行けども見渡す限りのオリーブ畑で、その総面積は約2万平方キロ(ほぼ四国の面積)に及びます。

コルドバはスペイン南部のアンダルシア州にある都市で、ローマ帝国時代からの歴史が幾重にも複雑に積み重なった街です。
イベリア半島は、ローマ帝国の衰退後、キリスト教国の支配下におかれたのち、8世紀からはイスラム教徒による統治の時代となり、コルドバも最盛期にはヨーロッパ・北アフリカにおけるイスラム教国の中心都市として隆盛を迎えました。
その後、再びキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動(いわゆる、レコンキスタ)が展開され、1492年1月のグラナダ(後記)陥落で800年近く続いたイスラムの時代は幕を閉じました。
かつて、イスラム教徒は北アフリカからイベリア半島へ侵入して北へ勢力を拡大し、その後レコンキスタを通じて、今度は北から南へ順次掃討されたことから、スペインの南部にはイスラムの文化がとても色濃く残っています。
コルドバの旧市街には、イスラム経済を支えたユダヤ人街が迷路のように入り組んでいて、美しい花々が白壁に彩りを添えています。
コルドバのシンボルともいうべき巨大なメスキータです。メスキータというのは、スペイン語の「モスク」のことで、その名の通り、かつてはイスラム教の礼拝堂=モスクだったところです。
その後、レコンキスタによりキリスト教徒が奪還してから、カトリック教会に改修され、イスラム教とキリスト教が同居する世界でも唯一無二の不思議な建物になりました。ちにみに、上(↑)の鐘楼もモスク時代の尖塔を改修したものです。

更に遡ると、イスラム教徒が侵入する以前には、聖ビンセンテ教会というキリスト教会があったところで、キリスト教会 → イスラム教モスク → キリスト教会と、数奇な運命を辿った場所ということができます。

このため、天井を見ても、イスラム独特の精細な幾何学模様(アラベスク)があるかと思えば…、
ゴシック建築独特のアーチ状の天井があったり…、といった具合です。

旧モスクの内部は、石灰岩と煉瓦を交互に組み合わせたアーチが限りなく広がり、大理石の円柱が森のように林立する広大な空間が広がっています。
このあたりは、レコンキスタの終結後に建てられた大聖堂の中央礼拝堂です。
偶像崇拝を禁じたイスラム教の簡素な造りと、キリスト教(正確には、カトリック教会)の贅を尽くした権威主義との、あまりのコントラストに言葉を失います。
このあたりのことを、ガイドブックなどでは、異文化(イスラム教とキリスト教)の「融合」と表現しているのが一般ですが、管理人は「混沌」という表現の方が相応しいように見受けました。
この大聖堂が建てられた16世紀というのは、スペインがいわゆる「大航海時代」を謳歌した絶頂期で、その隆盛振りが伺えるとともに、イスラム教徒からの失地回復とキリスト教の復活にかけた彼らの熱い思いが形になったもの、といえなくもありません。
ここはオレンジのパティオ(中庭)と呼ばれるところです。イスラム教の時代は沐浴の場で、ナツメヤシや月桂樹の並木だったとあります。
グワダルキビール川を隔てて見るメスキータです。手前のローマ橋や旧市街とともに、「コルドバ歴史地区」として世界遺産に登録されています。



イベリア半島の南縁、地中海を挟んで北アフリカと対峙するところに横たわっているのがシエラ・ネバダ山脈です。スペイン語で「積雪のある山脈」を意味し、ヨーロッパで最南端のスキーリゾートとして、多くの観光客が訪れるところですが、そのシエラ・ネバダ山脈の麓に築かれたのがアルハンブラ宮殿です。

上(↑)の写真はアルカサバと呼ばれる区域で、13世紀に築造された要塞が朝日に映えていました。

アルハンブラ宮殿は、歴代イスラム王の王宮であり要塞であった場所なので、コルドバのメスキータのような、奇妙な「異文化の融合」はありませんが、唯一、レコンキスタ終結(=グラナダ奪還)から30年後の16世紀に建てられたカルロス5世宮殿(↑)が、ひときわ異彩を放っています。

ここはメスアール(裁き)の間という部屋で、かのコロンブスが1492年4月、レコンキスタを終えたばかりのイザベル女王とフェルナンド王から、インド航路開拓の許可と資金援助を受けた場所です。
この後、コロンブスは同年10月に「新大陸」を発見し、時代は異教徒との戦いから、「大航海時代」へと大きく転換することになり、スペインの黄金時代が到来することとなりました。その意味では、1492年というのはスペインにとっては特別な年であり、この部屋は新しい時代の幕開けを告げる舞台でもあったといえます。

天井や壁面を飾る幾何学模様や絵タイルの美しさは、「壮大にして精緻」、「優美にして華麗」、「イスラム文化の至宝」、などという月並みな言葉ではとうてい表現できない、圧倒的な迫力があります。
アルハンブラ宮殿の中心部、アラヤネスのパティオです。水鏡に映えるコマレスの塔が、朝日に映えて神々しく輝いています。
有名なライオンのパティオです。12頭のライオンが噴水を取り囲んでいて、偶像崇拝が禁じられているイスラム宮殿に、こうした偶像があるのも奇妙なことですが、そのためにライオンともネコともつかない、写実性に乏しい顔立ちにしてあるとも…(笑)。
修復作業の現場です。
宮殿の眼下には夏の離宮であるヘネラリーフェ、さらにその向こう側には、ダロ川を挟んでグラナダの市街や、サクロモンテの丘が広がっています。また、今日は雲がかかっていますが、左手奥には雪をいただくシェラ・ネバダ山脈も遠望することができます。
夏の離宮(ヘネラリーフェ)側から見たアルハンブラ宮殿です。
アルハンブラ宮殿の東に位置する夏の離宮、ヘネラリーフェです。
上(↑)の写真は、ヘネラリーフェの奥にあるアセキアのパティオです。アセキアとは水路のことで、全長50メートルほどの縦長の水路に、両側からたくさんの噴水が降り注いでいます。

アルハンブラ宮殿を見学して思うことは、もともとは砂漠の民であったイスラム教徒の、水というものに対する強い思いです。宮殿の至るところに水路や噴水が設えてあり、「水の宮殿」とも呼ばれています。

私たちは贅沢に惜しげもなく散財することを「湯水の如く」と言います。それは、水というのが私たちには労せずに手に入る代名詞だからですが、彼らにとっては金銀にも勝る貴重なものであり、それをこうして惜しげもなく流すことは、富と権力の象徴だったのでしょう。

アラビア語には、「湯水の如く」という言葉は無いはずです(笑)。

ライトアップされたアルハンブラ宮殿の夜景です。

グラナダではフラメンコショーを観賞しました。旧市街の狭い道を20分ほど走ったサクロモンテの洞窟というところが会場で、アルハンブラ宮殿からは、谷を挟んで反対側になります。

ここはその昔、ジプシーが住みついたところで、フラメンコ発祥の地といわれています。

ステージがある劇場のような所で観ると思っていたら、狭い洞窟の目の前でいきなり踊りが始まり、その迫力にビックリです。スペイン語でタブラオという、フラメンコのライブハウスのようなところです。
スペインもアンダルシア地方まで南下してくると、北のバルセロナやマドリッドと違って、「情熱と太陽の国」といった私たちが普通にイメージしているスペインらしさを体感します。

それはどこから来るのかと考えてみると、温暖な気候もさることながら、やはりイスラム文化の香りによるところがとても大きいことに気づきます。

レコンキスタでイスラム教から失地を回復したキリスト教ですが、今なお人々の生活と意識に強い影響力を残し、ひいてはスペインのアイデンティティの一部にもなっているイスラム文化…、何か歴史の皮肉を感じずにはおれません。



グラナダからさらに南方約150kmにあるミハスへ向かいます。このあたりは、スペインの最南部にあたり、シェラ・ネバダ山脈と地中海に挟まれた温暖な地域で、年間の日照日が300日以上あることから、コスタ・デル・ソル(太陽海岸)と呼ばれるビーチリゾートです。
海に向かって開けた南面の傾斜地に、ヨーロッパのお金持ちの別荘や、高級リゾートホテルが建ち並んでいます。
アンダルシア地方では強烈な太陽の日差しを遮るために、毎年3月頃に壁を白く塗り直すといいます。道を細くし、窓を小さくとり、壁を白く塗った独特の景観から、「白い村」と呼ばれて観光スポットになっています。
ミハスで一番美しいといわれているサン・セバスティアン通りでは、管理人もオープンカフェで午後のひとときを楽しみました。

闘牛が国技といわれるスペインでは、こんな小さな村にも闘牛場があります。これはそのチケット売り場で、歴史を感じさせる白壁の建物です。生憎というか幸いというか、オフシーズンだったため、今回のツアーでは闘牛を見物することはありませんでした。




セビージャはスペインの南西端にある古い町で、その起源はローマ帝国がイベリア半島を支配していた紀元前に遡ります。13世紀以降はレコンキスタの中心基地として、またコロンブスによる新大陸発見以後は、アメリカ大陸との交易港として、一段の繁栄期を迎えました。

ここは1929(昭和4)年に万国博覧会の会場施設として造られたスペイン広場です。
両翼に半円形に延びる回廊と、スペイン各県の歴史的出来事を描写した壁面タイル絵が特徴的で、下(↓)の絵は、新大陸から帰ったコロンブスがイザベル女王に謁見しているところです。
スペイン広場から大聖堂へ向かう途中にあるモニュメントです。 2本の柱の間にある舟はコロンブスが新大陸を発見したときに乗っていたサンタマリア号を模してあります。

舟からぶら下がっているのはトウモロコシ・トマト・タバコなど新大陸から持ち帰った品々をイメージしたもので、柱の上の「1492」の数字はもちろんコロンブスが新大陸を発見した年です。

旧市街の面影を色濃く残しているサンタクルス街です。このあたりまで来ると、観光地というより、地元の生活空間に入り込んだ雰囲気で、時間があればじっくりと撮ってみたい場所でした。
トレドと並ぶスペイン最大の大聖堂で、世界遺産に登録されています。ここもレコンキスタ以前には巨大なモスクが建っていたところで、中世ヨーロッパのゴシック建築とは趣を異にするところがあります。
大聖堂で見逃せないのがコロンブスの墓で、4人の巨人に担がれた棺の中には、コロンブスの遺灰が納められているといわれています。やはり、コロンブスとは切っても切れない土地柄のようです。



以上でスペインの後半を終わります。ご覧いただき有り難うございました。
次回は最終回、ポルトガルを回ります。
2月3日の更新予定です。是非お立ち寄りください。


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