(2012.10.7)


   

     

 

  

信州というと夏でも清涼な避暑地といったイメージがありますが、今年の猛暑は信州も例外ではなく、7〜8月の松本は真夏日が38日、猛暑日が5日と、何と千葉の真夏日41日、猛暑日1日と、さして変わらない暑さでした。

そんな信州を、中山道妻籠宿から安曇野・松本を回ってきました。あまりこれといったテーマもなく、「お散歩カメラ」のような写真ばかりで、退屈なことと思いますが、酷暑のロケに免じてご笑覧ください。
先ずは中山道妻籠宿からです。
中山道妻籠宿(つまごじゅく)については、今さら何の説明も要らない「超」がつく有名地なので、ここでは「重要伝統的建造物群保存地区」のことだけ触れておきます。

これは、1975(昭和50)年の文化財保護法の改正によって発足した制度で、城下町、宿場町、門前町、寺内町、港町、農漁村などのうち、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成しているものについて、市町村の申請をもとに国(文化庁)が選定しています。

あんまり長くて舌をかみそうな名前なので、略して「重伝建地区」、さらに略して「重伝建」、もっと略して「伝建」(←いくら何でも端折り過ぎだろ!)と呼ばれています。

現在、全国で98地区が選定されていて、N's TOWNでも、角館(秋田)、大内宿(福島)、佐原(千葉)、川越(埼玉)、白川郷(岐阜)、今井町(奈良)、知覧(鹿児島)などを訪れています。

今回の妻籠宿は、1976(昭和51)年9月、重伝建地区のスタートにあたり、第一次選抜として指定された7箇所のうちの一つで、いかに早くから景観保存活動に取り組んでこられたかが伺えます。

ちなみに、その他の第一次選抜組には、角館、白川郷、京都産寧坂、京都祇園新橋、萩市堀内地区、萩市平安古地区、といった錚々たる「有名どころ」が名を連ねています。

ふらっと立ち寄った分際で贅沢は言えませんが、こういう場所は、できれは夕暮れ時や、曇天の柔らかい光で撮りたいところです。この日も最高気温が33℃のカンカン照りで、いったい何リットルの汗をかいたことやら…。

次は、信州安曇野です。
安曇野(あずみの)は松本の北、犀川/穂高川/高瀬川などの流域に広がるのどかな田園地帯で、北アルプスからの伏流水が日量70トンもの湧水となって一帯を潤しています。

上(↑)の写真は、安曇野を眼下に見渡す長峰山山頂です。長峰山はJR篠ノ井線明科(あかしな)駅の背後に聳える標高933メートルの山で、山頂まで車で上がることができます。
ここは、1960(昭和45)年5月の好日、川端康成、井上靖、東山魁夷の3氏が一緒に訪れ、「残したい静けさ、美しさ」(川端康成)と絶賛したことで一躍有名になった展望台です。

たしかに、正面に北アルプスの峰々を一望する絶景ポイント(右の地図ご参照)ですが、この日はあいにく夏雲が懸かっていました。

山々が白銀をいただく頃の再訪を期して、今回はその「下見」と諦めることにしました。


安曇野には豊富な湧き水を利用したわさび田がたくさんありますが、ここは日本最大規模のわさび園といわれる「大王わさび農場」です。

年間約120万人が訪れる安曇野随一の観光スポットで、15ha(約45,000坪)の敷地に清冽な湧水が引き込まれ、年間平均130トンものわさびが収穫されています。
わさびは直射日光に弱いそうで、この時期はご覧の通り、一面、黒い寒冷紗で覆われています。
安曇野は道祖神のメッカで、村の守り神として辻々で見ることができます。もっとも、ここに置かれているのは、どうもレプリカのようですが、幼い兄妹が熱心に手を合わせていました。

農場の脇を流れる蓼川に架かる水車です。この水辺は、故黒澤明監督の「夢」(1990(平成2)年/ワーナー・ブラザーズ)の第8話「水車のある村」の舞台として選ばれところです。


最後は、松本市内の「あがたの森公園」です。
ここは、旧制松本高校の跡地に作られた公園で、旧制松本高校の木造洋風建築の校舎が保存され、その本館(一部)はあがたの森文化会館として、公民館や図書館として今も活用されていいます。

こちらの建物は講堂で、現在もホールとして使用されています。これらの建物は2007(平成19)年に国の重要文化財に指定されています。

正面入口から公園に続くアプローチは、両側が樹齢80年を超すヒマラヤスギの並木道で、かつてのキャンパスを彷彿とさせます。

中庭を囲む校舎です。パステルグリーンの洋風建築が大正ロマンを今に伝えています。これらの建物は内部も公開されていますが、あいにく訪れた日は休館日(月曜日)で、残念ながら見学ができませんでした。

旧制松本高校は1919(大正8)年に官立旧制高校として設立された高校ですが、戦後の学制改革により、1949(昭和24)年に新制信州大学が設立されるにあたり、その母体の一つとして文理学部に改組包括され、1950(昭和25)年に31年の歴史に幕を閉じました。この間、政財界に多数の人材を輩出したほか、文芸界では北杜夫氏や辻邦生氏も本校の出身です。

このほかにも、松本には、有名な1873(明治6)年創立の(旧)開智学校から現在の県立松本深志高校に連なる長い歴史があり、一方には1898(明治31)年創立の松商学園といった私立の名門校もあり、教育熱心な土地柄が伺えます。ちなみに、(旧)開智学校の建築費用の7割は、松本町民の寄附により賄われたとあります。

ここは、もともとは県(あがた)神社という神社の森があったところで、当時をしのぶケヤキの大木がこうして保存されています。
州の山々をバックに、芝生の大広場や池と四阿が配された落ち着いた公園です。観光スポットというわけではありませんが、地元の方々の大切な憩いの場所と見受けました。

 
こここから先は、(おなじみの)【付録】です。

松本から犀川の右岸を北上してきたJR篠ノ井線は、明科(あかしな)駅を出ると北東に進路をとって山地に分け入っていきます。ここは松本平と善光寺平を隔てる山越えのルートで、途中の姥捨駅付近から俯瞰する善光寺平は、日本三大車窓風景の一つに選ばれています。

その山越えルートのうち、明科〜西条間の9.7qは、潮沢川に沿って半径300メートルの急カーブを繰り返しながら、西条へ向かって25‰(注)の上り急勾配が続く難所で、篠ノ井線(松本〜篠ノ井)のなかでも最後に開通した区間です。

(注) 1,000m進んで25m上る(下る)勾配で、鉄道としては急勾配。

ところが、この区間は古くから地滑りが頻発することもあって、1988(昭和63)年に3本の長大トンネル(総延長7.3q)を穿った新線が建設され、1902(明治35)年の開通から86年間にわたって使用されてきた旧線は廃線となりました。

この廃線区間のうち、明科駅から旧第2白坂トンネル入口までの約6qについて、遊歩道として整備されて、安曇野周遊のついでに、立ち寄って見学してきたので、ご覧いただきます。

世の中には、廃線跡の探訪を趣味にしている人たちがいて、道なき道を分け入って鉄道遺跡を探索していますが、そういう人たちから見ると、こうして整備された廃線跡というのは、きっと面白味に欠けることと思います。


現地の案内板
途中いくつかの見どころがありますが、ここはその一つの漆久保トンネルです。全長53メートルの短いトンネルですが、地元で焼かれた煉瓦づくりの、いかにも明治の面影が残るトンネルです。
西条方の坑門です。すっかり周りの風景と同化し、今や風景の一部と化しています。

漆久保トンネルの上を通る細い山道(大昔の善光寺道といわれている)に、二体の石像が祀られています。説明板によれば、木曽の御嶽山の参道を拓いた普寛(右)と覚明(左)とあります。いずれも、御嶽信仰隆盛の礎を築いた行者ですが、ここで道ゆく人の安全を祈願してきたのでしょうか。

何しろ昭和63年まで使われていた路線で、当時すでに電化されていたため、コンクリート製の架線柱がそのまま残されています。

ここは漆久保トンネルの少し明科寄りにあるケヤキ林です。約20ha(約6万坪)にわたって3万本のケヤキが鉄道林として植林されています。いかにこの場所が、長らく地滑りに悩まされてきたかを物語っています。



信号機や標識類もいくつか残っています。
レールや枕木は撤去されていますが、当時のバラストと思われる砂利が残っています。

ここは潮沢信号所の跡地です。潮沢信号所は、戦後の輸送力強化のため、1961(昭和36年)に開設された信号所で、 勾配の途中にあるため、スイッチバック式になっていました。

上(↑)の写真は明科方を見たもので、擁壁の下を通る道(黒線)が本線跡、擁壁の上(青線)にあったのが明科方の引上線、ということになります。

本線跡はかなり埋め立てられた形跡があり、当時は引上線との高度差がもう少しあったかと思います。
上(↑)の写真も明科方を見たものです。林道建設のため(?)随所で埋め立てられているので、当時の地形と異なっていますが、それでも本線と引上線の大まかな位置関係は見て取ることができます。

かつての鉄道は、土木技術や建設資金の制約から、先ず川や沢に沿って上れるところまで上って、いよいよ「万策尽きた」(笑)ところで、最小限のトンネルを穿って峠を越えるのが基本パターンでした。

このため、トンネルの前後は当区間のように、急勾配と急カーブが連続し、そこを非力な蒸気機関車でよじ登るわけですから、機関士をはじめ、運行を支える人々から乗客に至るまで、その苦労は想像を絶するものがありました。

皆さん、本当にお疲れ様でした。