(2012.9.16)
「倭(やまと)は国のまほろば」と詠われた古都奈良は、古くから様々な歴史の舞台になってきましたが、それは県北の奈良盆地を中心とした話で、県の南半は険峻な山岳が重畳し、人々の往来や文物の交流を阻んできました。最近でこそ道路改良が進んで交通事情も改善されましたが、長いあいだ陸の孤島同然の状況に置かれてきた多くの村では、人口が1,000人以下という厳しい過疎化にさらされています。 ちなみに、総面積から山林や湖沼を差し引いた奈良県の「可住地面積」は、僅か850平方キロと、47都道府県の最下位で、人口の9割以上は奈良盆地を中心とした地域に集中しています。 その山岳地域には、大峰山脈と台高山脈の二つの脊梁山脈が南北に走っています。 大峰山脈は山岳修験道の聖地として、古くから信仰を集めてきたところで、先年世界遺産に登録された「熊野古道」へと連なる、修行と信仰の霊場でもあります。 一方、台高山脈は大峰山脈の東に位置し、奈良県と三重県の県境を画しながら、高見山から大台ヶ原山に至る30qの山塊で、大峰山脈とともに「近畿の屋根」と称されています。 |
ちなみに、大峰山脈の西側を流れるのが十津川、東側すなわち台高山脈との間を流れるのが北山川で、両川は合流して熊野川となり、新宮で熊野灘へ注ぎます。そして、十津川に沿って走るのが西熊野街道(国道168号)、北山川に沿って走るのが東熊野街道(国道169号)で、かなり改良が進んだ今でも、基本的には崖っぷちを縫って走る険路には変わりありません。 …、と全体の地形と位置関係を俯瞰してから、本編へ進むことにします(エヘン)。 |
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今回取材したのは、その台高山脈の南端に位置する大台ヶ原山です。もっとも、「大台ヶ原山」という名前のピークはなく、日出ヶ岳(ひでがだけ)を最高峰(1,695m)とする頂上が平坦な複数の山からなる東西5kmほどの台地状の山塊全体を大台ヶ原(山)と総称しています。よって、N's TOWNでは「大台ヶ原」ということにします。 頂上は大きく東大台地区と西大台地区に分かれていて、東大台地区は自由に散策できますが、西大台地区は自然環境保護の観点から「利用調整地区」に指定されていて、入山にあたっては事前に許可が必要です。 上(↑)の写真では上手く表現できていませんが、平坦な頂上の周囲は急峻な崖で囲まれていて、とくに南西側は、東ノ川渓谷へ向けて大きく切れ込み、200mを超える絶壁となって落ちています。このあたりのことは、大蛇ー(だいじゃぐら)のところで後述します。 |
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大台ヶ原へは、早く(1961(昭和36)年)からドライブウェイが開通していて、頂上駐車場まで車で上がることができ、そのあと各自の日程と体力にあったコースを散策することになります。 |
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大台ヶ原はわが国有数の多雨地域で、年間降水量は約5,000oに達します。これは平均的な都市の約4倍にあたり、「大台ヶ原では月に40日雨が降る」といわれるほどで、一日に1,000o(!)降ったという記録もあるそうです。ちなみに、今までの年間降水量の最大記録は、1920(大正9)年の8,214oです。 これは、大台ヶ原が海から至近にあるため、熊野灘を流れる黒潮に暖められた気流が、山の急斜面を一気に駆け上がって冷却され、雲となって雨を降らせるためといわれています。台風のシーズンには、台風がまだ遥か南方海上にあるのに、大台ヶ原だけは一足早く雨が降る、ということも珍しくありません。 大台ヶ原に降った雨は、「東ノ川」(→北山川→熊野川→熊野灘)、「大杉谷」(→宮川→伊勢湾)、「本沢川」(→吉野川→紀ノ川 →紀伊水道)の3方向へ流れ下り、貴重な水源となって流域を潤しています。とくに、奈良盆地においては、同じ県内でありながら水系が異なるため、吉野川の恩恵を受けることができず、長らく農業用水を溜め池に頼ってきましたが、1950〜70年代にかけて行われた、吉野川上流ダム群の建設と導水路の敷設により、奈良盆地の水問題はついに解決をみました。いわゆる「吉野川分水」といわれる国営事業がそれであります。 …と、またまた脱線しそうなので先を急ぎます(笑)。 |
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この日もスタート時点では雨の出迎えを受け、1時間半ほどは雨中を行進することになりました。 |
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「雨の大台も悪くないな…」などとやせ我慢を言いながら撮り続けていると、山のお天気は良くも悪くも急変するもので、途中、牛石ヶ原あたりから雨が上ってきました。 |
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牛石ヶ原というのは、ササの絨毯が広がる平原に立ち枯れた木々が点在する独特の景観で、その一隅に寝牛の形をした石があることから、その名がついたといわれています。 |
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牛石ヶ原の東端には神武天皇の銅像が立っています。これは、いわゆる神武東征の際、熊野から北上して吉野へ入る途中、ここで国見をされた姿を写したものといわれています。 銅像は大台教会の信者の方々が中心になって建立されたもので、大阪で鋳造されたあと、海路を尾鷲まで運び、そこからはトロッコや運材用の索道で、最後は木橇(そり)のようなものに載せて人力で運び上げた、とあります。 神武天皇の弓に留まっているのは金色の鵄(とび)で、「金鵄(きんし)」と呼ばれているものです。金鵄は天皇軍を勝利に導いたシンボルとして扱われていますが、熊野から大和への道案内をしたとされるのは、熊野の神々の使いとされる「八咫烏(やたがらす)」であって金鵄ではありません。 もっとも、すべて神話の世界のことですから、そんなにムキになることもないのですが…(笑)。 |
ちなみに、八咫烏の「咫(あた)」とは長さの単位(約24p)で、「八」というのは「とても大きい」ということを意味し、八咫烏とは「大きなカラス」ということになります。3本足(!)のカラスとして描かれることが多く、サッカー日本代表のエンブレム(右の写真)にもデザインされています。 |
(C) JFA |
日出ヶ岳の直下にある展望台です。海に向かって張り出した気持ちの良い展望台で、眼下には尾鷲湾や熊野灘を一望することができます。ここから尾鷲の海岸までは直線距離にして僅か10キロです。空気の澄んだ冬の好天時には、知多半島から富士山(直線距離273q)まで遠望することができます。 ちなみに、右(→)の写真は同じ日の早朝、雨中行進の途中に撮影したものです。 |