(2009.2.22)


   

 

   


中国・台湾のみならず中華圏の国々・地域では、今でも旧暦の正月を盛大に祝う習慣があります。本家の中国では、旧暦元旦を挟んで3日間(2009年は1月25日〜27日)が国の祝日になっていて、中国の人たちにとっては一年で最も重要な祝日です。

旧正月のことを「春節(しゅんせつ)」といい、日本の正月がそうであるように、新年を寿ぎ幸福を祈る様々な行事が催され、日本では各地の中華街でその様子を見ることができます。そこで、
N's TOWNでは、横浜の中華街に春節風景を取材に出かけてきました。
……が、この日は、春節のフィナーレである元宵祭(春節後に到来する最初の満月の夜=旧暦1月15日=いわゆる小正月)の前日で、中国獅子舞や雑技・演舞などの催事があちこちで行われたため、もの凄い人混みでカメラを構えることもままならず、街並みを少し撮っただけで早々に退散しました。

中華街を逃れて、近くの山下公園前に係留されている「氷川丸」に立ち寄りました。…というか、結果的にはこちらがメインになってしまったので、タイトルも急遽「横浜散歩」という得体の知れない名前になりました(笑)。
さて、氷川丸のことは余りにも有名なので多くを語る必要はありませんが、200字でサクッと(!)おさらいをしておくと……

1930(昭和5)年に横浜船渠(現、三菱重工業)において完成した日本郵船会社所属の貨客船(排水量11,622トン)で、姉妹船の日枝丸、平安丸とともにシアトル航路に就航、第二次世界大戦中は病院船として徴用されたため生き残り、シアトル航路に復帰の後、1960(昭和35)年に引退、翌年から氷川丸観光会社に移籍して現在の場所で横浜港のシンボルとして親しまれてきたが、運営会社の解散に伴い日本郵船が引き取り、修繕・修復を行って2008(平成20)年4月から公開を再開した

ということになります。
ここは1等食堂で、1937(昭和12)年に秩父宮両殿下がご乗船の際の特別ディナーを再現してあります。

外国人旅行者が多く乗船することから、内装の設計には高名なフランス人デザイナーが登用され、当時流行したアールデコ(
Art Deco)調の意匠が随所に施されています。
上の写真は1等船室で、ベッドと小机、洗面台などが設備されていますが、現代の感覚からすると質素な造りです。したがって、3等船室にいたっては、右の写真の通り2段ベッド×4台の8人部屋で、ずいぶん窮屈なことになります。

現代でも幾分そういうところが残っていますが、船というのは等級格差がとても厳格で、当時は3等船客が1等船室のある上層デッキへ上がることすら許されなかったそうです。
ここは操舵室(英語でブリッジといいます)で、現代の船と違って、配置されている機器類が少ないため、室内は広々としています。船名は埼玉県大宮市(現、さいたま市大宮区)の氷川神社に由来するもので、操舵室にある神棚(この写真の背後の壁面)には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった今も祀られています。

これはエンジンテレグラフという装置で、操舵室から機関室へエンジンの操作指令を行うものです。機関室にも同じような装置(右写真)があって、操舵室からの指示を伝えます。

現代の船では操舵室からエンジンを直接遠隔操作するので、このような装置は使われていませんが、今ではマリンインテリアとして、舵輪とならぶ人気アイテムです。

エンジンテレグラフに表示されている文字の意味は、

FINISHED WITH ENGINE(機関使用解除)
STOP(機関停止)
STAND BY(機関準備)
以下、
AHEAD(前進)とASTERN(後進)は共通
DEAD SLOW(極微速)
SLOW(微速=全速の約1/2)
HALF(半速=全速の約3/4)
FULL(全速)

です。
ここは機関室です。デンマークのB&W社製ディーゼルエンジン(5,500馬力)×2基で2つのスクリューを回しています。船のスクリューというのは、高速で回わせばいいというものではなく、あまり速過ぎても水中で空回りしてしまうので、できるだけ大きなスクリューを大きな力(トルク)でゆっくり回すのが効率的といわれています。

そのため、舶用のディーゼルエンジンも、大きなピストンを長いストローク(往復動)で、ゆっくり動かす構造になっていて、氷川丸のそれもピストン径が68センチ、ストロークが1メートル60センチ、回転数が毎分110回転(!)で、同じ内燃機関でも自動車のエンジンとは全く別種のもので、シリンダーヘッドからクランク室まで3階相当の高さがあります。

B&W社は、その後、ドイツの名門Man Diesel社と合併し、現在でも世界の大型舶用ディーゼルエンジンの80%のシェアを握っています。(日本でのライセンシーは三井造船)

先の大戦でわが国は軍艦も客船も商船も全て失いました。僅かに残った戦前の船にこうして直接触れることができるというのは、工学的にも文化的にも大変貴重なことですが、氷川丸も来年で船齢80歳を数え、近くで見ると寄る年波に相応の傷みもあり、入渠もままならない係留船を民間の会社が維持管理してゆくには大変な苦労があることと思いました。