(2008.9.21)


   

 

   

函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が幕を閉じたのが1869(明治2)年5月、城山で西郷隆盛が自害して西南戦争が終息したのが1877(明治10)年9月ですから、文字通り世情騒然としたなかで、こういうものを作って動かした明治人の気概というのはつくづく凄いなぁと感心します。

「こういうもの」というのは、今回ご覧いただく「旧富岡製糸場」です。操業開始が1872(明治5)年10月4日といいますから、未だ戊辰戦争の余韻醒めやらずといった時代です。

「富国強兵」と「殖産興業」は明治政府の2大政策目標だったわけですが、富国強兵のためには先立つものが必要、そのためには殖産興業が不可欠、とりわけ当時では唯一の外貨獲得商品であった「生糸」の品質向上が、国を挙げての喫緊の課題でした。

……と、このあたりまでは皆さん歴史の授業で勉強された記憶があるかと思いますが、ここから先は、現地のボランティアガイドの方から伺った話や資料による
N's TOWNならではの貴重なウンチク(笑)です。

何しろ明治5年ですから、当時としては世界最大級の製糸工場を建築するにも、ほとんどの材料がわが国では手に入らないものばかりで、レンガは外国人技師の指導で近くに窯をつくって特別に焼成したが、レンガ積みの目地にするセメントがないため、やむを得ず近くで産する石灰を利用した(漆喰のようなもの)が、かえってセメントより耐久性の点で優れていたため、建物の現存に貢献している、といった具合です。

また、窓用のガラスもフランスからの輸入品が今も現用されていて、窓ガラス越しに見るゆがんだ景色が時代を伝えています。この他、扉の鉄板から蝶番に至るまで輸入品だったといいますから、当時の日本としては精一杯背伸びした破格のプロジェクトでした。また、操業開始の翌年(明治6年)には、早くも英照皇太后と昭憲皇后の行啓が行われていて、国を挙げての一大事業であったことがうかがえます

正面入口脇に行啓時の歌碑があって、

「いと車 とくもめぐりて大御代の 富をたすくる道ひらけつつ」

と詠まれています。

ちなみに、このとき両陛下から工女一同に、御紋章入りの扇子が下賜されています。

この建物は繭を保管した倉庫で、奥行き12メートル、幅104メートルという大きなもので、敷地の東西に2棟あります。(写真の建物は西繭倉庫です)

農家から運び込まれた繭は機械により5〜7時間掛けて乾燥させてから、先ほどの倉庫に運ばれて更に自然乾燥され、生糸に加工されるのを待つことになります。
これは繰糸工場(そうしこうじょう)という建物(12メートル×140メートル)で、繭から糸を繰る工場です。創業当時の繰糸機は、長野県岡谷市にある蚕糸博物館に保存されていて、下の写真の機械(ビニールのカバーが掛けられていて見えませんが…)は、操業停止時に使われていた旧日産プリンス自動車(遡れば立川飛行機、更に遡れば中島飛行機)製の機械だそうです。そういえば、トヨタも元は(今も?)織機メーカーで、紡織と自動車は何か技術的な繋がりがあるのかも知れません。
管理人は、「どちらも"回転技術"がカギ」という大胆な仮説(笑)を立てていますが……。


「官営」富岡製糸場は1893(明治26)年に三井家に払い下げられた後、横浜の生糸商である原合名会社を経て、1939(昭和14)年に片倉製糸紡績会社(現、片倉工業(株))の所有となり、1987(昭和62)年まで115年間にわたって操業が続けられました。

その後、2005(平成17)年に建造物が、2006(平成18年)には土地の大部分が、地元の富岡市に寄贈/譲渡され、現在は市により貴重な文化財として管理されていますが、操業中はもとより、操業停止の後も20年近くの間、「売らず、貸さず、壊さず」の信念で、固定資産税を含めて年間1億円もの維持費を投じて(!)、旧状を変じることなく創業当初の姿を維持管理してきた片倉工業の企業理念には頭が下がるとともに、かつては「特別な産業」として日本を支えてきた「繊維」というものに対する彼らのひそかな誇りと深い愛情を垣間見た気がしました。

2005(平成17)年に「旧富岡製糸場」として国史跡に指定、2006(平成18)年には1875(明治8)年以前の建造物が国の重要文化財に指定されました。また、2007(平成19)年には「富岡製糸場と絹産業遺産群(The Tomioka Silk Mill and Related Industrial Heritage)」としてユネスコの世界遺産暫定リストにも登録されました。

現在、日本には3箇所の自然遺産と11箇所の文化遺産が登録されていますが、富岡製糸場のような「産業遺産」は一つも登録されていません。イギリスには産業革命期の紡績工場群が登録されている事例もあり、ここが「日本における近代工業発祥の地」として、わが国産業遺産の第一号になるかもしれません。

正面入口脇の見事なサルスベリ。