(2007.4.8)


   

 

     

広島県呉市の沖合いに浮かぶ江田島(えたじま)は、明治21年(1888年)に海軍兵学校が東京築地から移転、昭和20年(1945年)に太平洋戦争の終結により閉鎖になるまで57年間にわたり、約12,000名の士官を輩出した「海軍の聖地」として知られているところです。

終戦後は、11年間にわたる連合軍の接収が解除された後、海上自衛隊がこれを引き継ぎ、昭和31年(1956年)に横須賀から幹部候補生学校を含む術科学校が移転、昭和32年(1957年)に幹部候補生学校が独立、昭和33年(1958年)に第1術科学校が開校し、現在に至っています。

(右の航空写真にカーソルを載せると地図が表示されます。)

今回はその海上自衛隊幹部候補生学校を見学する機会を得たのでご覧いただきます。構内は一般にも公開されていて、1日3回(土日・祭日は4回)広報の案内で見学することができます(入場無料、所要90分)。 とくに最近は、映画「男たちの大和」(2005年・東映系)や大和ミュージアム(呉市)開館の影響もあって、見学者の数が倍増しているそうです。


53万u(約16万坪)の構内は歴史的建造物の宝庫といった状態で、海軍兵学校時代の建物がいまもそのまま大切に現用されていて、凛とした雰囲気を醸し出しています。また、白砂青松を絵に描いたような景観は、教育の場として申し分のない環境で、広い敷地とよく手入れされた樹木や芝生、どこまでも高く青い空を見ていると、何か胸の空くような気分になります。

構内に展示されている戦艦「陸奥」の主砲(4番砲塔)で、昭和10年(1935年)の近代化工事の際に取り外したものを、海軍兵学校の教材として移設したものだそうです。したがって、柱島泊地で爆沈した艦から引き揚げたものではありません。

こちらは訓練用の短艇です。いわゆる「カッター」という小型ボートで、12人で漕ぎます。艦艇にあるときと同様に、ダビット(
Davit)という繋留装置に吊り下げて格納されています。余談ですが、満潮時には石垣の黒い部分まで海水に浸かります。

「総短艇(そうたんてい)」というのがあって、号令一下、取るものも取りあえず短艇に駆けつけて水上に下ろし、沖のブイを回ってくる時間を分隊ごとに競う訓練で、火急の際の機敏な操作を練成するものだそうです。ただ、この訓練は昼夜を選ばず抜き打ちで行われるため、今も昔も学生たちはその実施日時の予想に心血を注いでいるとか……。

何の変哲もない小さな浮き桟橋ですが、海軍兵学校時代から現在に至るまで、これが江田島の正面玄関で、「表桟橋」と呼ばれています。戦前には海兵の式典に天皇や各宮殿下が行幸啓される際も表桟橋から上陸され、現在でも幹部候補生学校の卒業生が遠洋航海に出るときはここから出発します。当然、反対の山手側にも出入口がありますが、そちらは正門といわずに「営門」といいます。沖合いで錨泊しているのは練習艦隊の艦船です。

構内の建造物群のなかでも白眉というべきは幹部候補生学校の建物で、通称「赤レンガ」と呼ばれています。これは海軍兵学校時代の生徒館で、明治26年(1893年)の建築です。この赤レンガはイギリスで焼かれた最高級のものを一枚一枚包装紙で包んで輸入したと言われています。赤レンガ1枚の値段が20銭(現在の物価換算で2〜3千円!)とかで、高温で焼成された表面はすべすべしています。最近修築工事が行われたため、明るい色調のレンガ色が青空に映えて素晴らしい眺めです。

建物の上部正面には桜と錨のマークが金色に輝いています。戦前は菊の御紋章が、戦後、連合軍に接収されていた時期は時計(!)が付けられていたそうです。

海軍ではご覧のように、松も横に這わないで起立しています(笑)。

下の写真は幹部候補生学校の学生が起居する学生館です。背後に聳えるのは古鷹山(標高392m)で、海兵の昔から学生が鍛錬(罰直?)のために駆け足で登った山として有名です。重巡「古鷹」(8,000トン)にもその名が付けられるなど、何かにつけて海軍と縁の深い山です。

下の写真は第1術科学校です。この建物は昭和13年に海軍兵学校西生徒館として建築されたもので、平成10年(1998年)に改築されて4階建てになりました。第1術科学校というのは艦艇技術に関する教育を行っていて、この他にも、第2術科学校(機関・情報)が横須賀に、第3術科学校(航空)が下総(千葉県)に、第4術科学校(経理・補給)が舞鶴にあります。

下の写真は大正6年(1917年)建築の大講堂で、平成10年(1998年)に大規模な修復工事が完成しました。写真は大講堂の裏側で正面玄関は反対側になります。