(2006.10.29)


   

 

     

前回はハワイレポートの前編としてワイキキ界隈の様子をご覧いただきました。今回は後編として「真珠湾(Pearl Harbor)」をメインテーマにご覧いただきたいと思います。

日本人もアメリカ人も、真珠湾といえば先ず思い浮かぶのは1941年(昭和16年)12月7日(現地時間)の出来事ではないでしょうか。今回、ハワイへ行くことが決まったときから、ぜひこの歴史の現場を訪れて、60年前の出来事に思いを馳せたい、と願っていました。(例によって、ちょっと大袈裟ですが…)

そこで真珠湾攻撃のことについて調べているなかで、第1次攻撃隊の指揮官で空母赤城の飛行隊長でもあった渕田美津雄中佐(当時)のことは夙に有名ですが、氏が管理人と同郷で管理人の出身高校(当時は旧制中学)の先輩であることを知りました。

ちなみに、渕田氏は大正9年に旧制中学(20期)を卒業後、海軍兵学校(52期)に進まれ、開戦当時は39歳でした。また、戦後はキリスト教に帰依されて、その伝道活動に生涯を捧げられたと聞いています。余談ながら、映画「トラ・トラ・トラ!」(1970年・20世紀フォックス)では田村高廣が流暢な関西弁で渕田中佐役を好演しています。

さらに余談ながら、真珠湾攻撃時に第一航空艦隊(旗艦赤城)の先任航空参謀だった源田実中佐(当時)も海兵52期の同期でした。


日本軍の攻撃を伝える号外のレプリカ
(アリゾナ記念館売店で販売)
皆様ご存知の通り、真珠湾にはアリゾナ記念館をはじめ種々の施設があって、観光コースにも組み込まれていますが、渕田中佐のことを知るにつけて、ぜひ上空からも現場を訪れたいとの思いが強くなり、今回ついに小型機での真珠湾訪問を企画した次第です。

今回使用した機材(同型機)で、Piper Cherokee Archer IIという機種です。Piperはセスナと並ぶ小型機の名門で、Cherokee(PA-28)シリーズも1960年のデビューから現在に至るまで、20以上のバリエーションをもつ大ファミリーに成長しているベストセラー機です。4気筒6000cc180馬力のピストンエンジン機で、最高速度は125ノット(約230キロ)、定員はパイロットを含めて4名です。
ちなみに、渕田中佐の搭乗した97式艦上攻撃機は、中島飛行機(富士重工の前身)製、出力970馬力、最高速度378キロ、乗員3名でした。

今回は空母赤城からではなく(笑)、ホノルル空港から発進します。この空港には長短4本の滑走路があって、今回は一番短い4Lという滑走路から北東方向へ離陸します。ホノルル国際空港の詳しい地図は右の飛行機のアイコンをクリックしてください。(なお、この画面へはブラウザの[戻る]ボタンで帰ってきてください)
ワイキキビーチを右下に見ながら高度1500フィート(約500メートル)へ向けて上昇します。この付近は島の北側(進行方向左側)から山越えで吹き降ろしてくる風を受けるため結構あおられます。前方の小高い丘はダイアモンドヘッドです。

飛行経路の概略は下の地図をご覧ください。オアフ島を反時計回りにほぼ一周する格好になります。
パンチボウル(Punch bowl)と呼ばれている国立太平洋記念墓地です。第2次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争などで戦死した約2万人が祀られていて、1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の事故で亡くなった鬼塚宇宙飛行士もここに眠っています。

右は少し手前から撮った写真で、昔の火口跡であることや、パンチボウルという名前の由来がよく分かります。
ダイアモンドヘッドを過ぎてココヘッドを左(北西方向)へ回り込みます。この辺りまでがホノルル空港のレーダー管制空域で、ここからは有視界飛行に移ります。前方にカネオヘ海軍航空基地(Kaneohe Naval Air Staion)が見えてきました。
ここは対潜哨戒機の基地でこの日もP3Cが離着陸訓練を行なっていました。エプロン(駐機場)にはシーハリアー(垂直離着陸機)が並んでいるのが見えます。開戦当時は水上偵察機の基地だったため、真珠湾とともに攻撃の目標になって徹底的に爆撃されました。
オアフ島の北側(正確には北東側)は一年中貿易風が吹きつけて雨量も多いため、緑濃い山肌には深い渓谷が刻まれ、ワイキキビーチのある南側とは対照的な景観を見せています。

また、手付かずの自然が多く残されていて、昔のハワイの風景を偲ぶことができます。
この谷はクアロア牧場(Kualoa Ranch)といって、映画「ジュラシックパーク」のロケが行われた場所です。ここでハイキングや乗馬を楽しむオプショナルツアーもあります。
ここも裏オアフ(!)で有名な観光スポットのポリネシアン文化センター(Polynesian Cultural Center)です。ポリネシアの民俗文化を再現したレジャーランドで、行かれた方も多いかと思います。少し高度を下げて旋回してもらいました。
小型機の計器盤はあっさりしています。写真にカーソルを載せると計器名が表示されます。
前方に見えてきたのがオアフ島の北端にあたるカフク岬(Kafuku Point)です。

1941年(昭和16年)12月7日(日)、北方からカフク岬の上空1500メートルに進入した第1次攻撃隊は、7:40(現地時間)に渕田機より放たれた信号弾を合図に一斉に散開し真珠湾へ殺到しました。

続いて7:49(同)に「ト連送(全軍突撃セヨ)」が、さらに3分後の7:52(同)に有名な「トラ連送(我レ奇襲ニ成功セリ)」が渕田機の水木電信員から旗艦赤城あてに発信されました。
管理人もカフク岬を交わして左(南)に変針、一路真珠湾を目指すことにしました。

ちなみに、渕田機はカフク岬から西進して、島の西側を巻いて南側から湾内に進入し、フォード島に停泊する戦艦群に水平爆撃を加えています。

右の写真は管理人と一緒に「出撃」(笑)した僚機です。
眼下には荒蕪地と一部パイナップル畑が広がっていますが、当時は一面のサトウキビ畑でした。
上の写真はホイラー陸軍航空基地(Wheeler Field)で、第1次攻撃隊がここへ投下した250キロ爆弾が真珠湾攻撃の嚆矢となりました。開戦当時は戦闘機の根拠地になっていたところで、基地上空では第2次攻撃隊の零戦隊と米戦闘機(P38)との空中戦も行われましたが、今日は土曜日で基地の管制塔がお休みのため、迎撃機が上がってくる気配もないので(笑)、上空を航過させていただきました。エプロン(駐機場)にはヘリが並んでいるのが見えます。
いよいよ前方に真珠湾が見えてきました。今日も空母はいないようです。(笑)
前方正面、湾内に見える小島がフォード島で、当時は大小の艦艇が湾内を埋め尽くすように停泊していました。戦艦群はフォード島の南側(こちらから見ると向こう側)の岸壁に密集係留されていて、南側や西側から来襲した日本軍の雷撃や爆撃で壊滅的な打撃を受けました。

右の写真は日本の攻撃機から撮影された写真で、米戦艦に魚雷が命中して水柱が立っているのが写っています。
下の写真中央の水面に浮かぶ白い構造物が戦艦アリゾナの記念館です。今もこの海面下に艦と水兵が眠っています。その手前の艦艇は戦艦ミズリーです。詳しくは後ほどご覧いただきます。
右下は潜水艦基地、正面はヒッカム空軍基地(Hickam Field)、その左手奥がホノルル空港になります。現在もヒッカム基地はホノルル空港と滑走路を共用しています。ヒッカム基地も主として零戦隊により徹底的に攻撃・破壊されました。
国際線のターミナルビルの上を右旋回して滑走路4Lの最終進入コースへ向かいます。約1時間の飛行もあっという間に終わって、無事、ホノルル空港に帰投しました。

こんどはアリゾナ記念館を陸上と海上から見学します。ここは全体が海軍の基地の中にあって、先ず陸上にある展示館で資料やジオラマや模型から真珠湾攻撃の詳細を知ることができます。渕田中佐のことも詳しく触れられていて感心しました。日曜日に訪れたのですが、ご覧のように大勢の見学者で2時間ほどの入館待ちになりました。
空母赤城のこんな詳細な模型も展示されていました。画面中央やや左の尾翼を赤く塗った指揮官機が渕田中佐の乗機で、よく見ると操縦席に立ち上がっている中佐の人形まで作り込まれています。(写真にカーソルを載せると画像が拡大されます)
展示の内容や説明はとても客観的で、どこかの国の戦史資料館のように、一方的に日本を詰るような内容ではないのですが、やはり奇襲攻撃(surprise attack)を仕掛けた側としては複雑な心情になります。戦争を知らない若者達なら気にならないのですが、退役軍人のような年配の方がしみじみとした感じで展示物に見入っておられると、ちょっと近寄りにくい気がするのは考え過ぎでしょうか。
展示館を見学した後、20分ほどの映画を観てから、海軍のボートで記念館へ向かいます。記念館のことは皆さん良くご存知と思いますので端折りますが、真珠湾攻撃による米軍側の戦死者2,403名(民間人68名を含む)のうち、1,777名が戦艦アリゾナの乗組員で、今もこの下に1,102柱の御霊を抱いて艦が眠っています。
65年経った今でも艦のタンクからこのようにオイルが漏れているそうです。
水面上に顔を出している3番砲塔の残骸です。真珠湾攻撃では水平爆撃隊の800キロ徹甲爆弾が2番砲塔近くの弾薬庫に命中し、僅か9分足らずで爆沈したため多くの戦死者を出した(前記)といわれています。

右の写真はその様子を伝える有名な写真です。
アリゾナ記念館近くの岸壁に係留されている戦艦ミズリーです。戦艦ミズリーは1944年(昭和19年)の就役なので真珠湾攻撃とは関係ありませんが、終戦時に東京湾での降伏文書調印式の舞台になったことで知られています。終戦の主役(ミズリー)を開戦のシンボル(アリゾナ)の隣に据えて鎮魂の証しとする、ということでしょうか。ちなみに、戦艦ミズリーは既に退役して一般公開されていますが、今回はあいにく日曜日のため見学できませんでした。


歴史の問題は
N's TOWNの手に負えるテーマではないのでここでは触れません。ただ、60年も前に、こんな遠くまでやって来て、39歳という若さで、指揮官として真珠湾を飛んだ郷土の先輩がいたこと、そして今回自分も同じ空を飛び、同じ目線で同じ景色を見たということに、(只々それだけのことですが)何か言いようのない感銘を覚えたため、いつにも増して長々しく、くどくどしい説明になってしまったことをお詫びするとともに、最後までご覧いただきましたことにお礼申し上げます。ありがとうございました。
前編(ワイキキ界隈)をご覧になる方は右のアイコンをクリックしてください。


[ Remarks ]
渕田中佐の苗字は、史料等では一般に「淵田」と表記されていますが、高校の同窓会名簿には「渕田」と記載されていたので、N's TOWNではこちらに拠ることにしました。
真珠湾攻撃の実写映像と「飛行隊行動図」はWikimedia Commonsから拝借しました。
今回の空撮にあたっては、現地のWashin Airさんに大変お世話になりました。