(2005.7.10)


   

 

  

  

行春や鳥啼魚の目は泪
黒羽町・芭蕉公園にある句碑
俳聖松尾芭蕉が門人曾良を伴い、江戸千住を後に奥州・北陸を経て美濃大垣に至る、600里(約2,400キロ)140日に及ぶ大旅行に出発したのは、元禄2年(1689年)5月16日(旧暦3月27日)、蕉翁46歳の春であった。

道中の始終は不朽の63句とともに、5年後の元禄7年(1694年)に「奥の細道」として完成し、これを見届けるかのように、その年の10月、芭蕉は51歳で没する。
いきなり「奥の細道」が出てきて何が始まるのかと驚かれたことかと思いますが、今回はその奥の細道と縁の深い、栃木県那須郡黒羽(くろばね)町という所を取材したのでご紹介します。こういう風に勿体ぶった書き出しで始めたときは、話がどんどん「横道」に逸れて、写真と関係ない方向へ行ってしまうことが多いので、適当に読み飛ばしてご覧下さい。
現在のJR東北本線や国道4号線は、宇都宮を出るとそのまま北上して那須連山の裾野をかすめて白河に至るが、昔の那須野が原は山河茫々として、とても旅人が踏み込めるような場所ではなかったため、当時の奥州街道は氏家(現、さくら市)からいったん北東へ進み、その後、小川から再び北上し、黒羽を経て那珂川沿いに白河関へと続いていました。現在の国道293号〜294号のルートがほぼそれにあたります。

ということで、黒羽町は今でこそ幹線から外れた地方都市になっていますが、かつては奥州街道に面した黒羽藩1万8千石の城下町として栄えた歴史のある町で、古い街道筋独特の何ともいえない落ち着いた佇まいが、町のいたるところに色濃く残っています。
その黒羽町を南北に流れる那珂川の左岸、比高50メートル程の河岸段丘の上に黒羽城址があります。城といっても、近世のいわゆる城郭というよりは、戦国時代の館といった方が相応しい山城で、その本丸跡といわれる広場がアジサイ祭の会場になっています。

背後の建物は物見櫓を模した建造物です。
また、本丸跡に隣接した一帯にも、アジサイの群落に埋もれるように、「芭蕉の館」、「芭蕉公園」、「芭蕉の道」といった施設が点在していて、城址公園全体がさながら「芭蕉の里」といった趣があります。
そこで「奥の細道」の出番であります。

5月21日(旧暦4月3日)、黒羽を目指して那須野が原に踏み入った芭蕉一行も、草原のなかを縦横に分かれる野道にいささか難渋した様子が記されています。

広い那須野が原で土地勘のない芭蕉一行が道に迷うことを心配した人情篤い野夫が馬を貸してくれたことや、その馬のあとを追うようにして走って来る二人の小さい童との印象的な出会いがそれで、奥の細道のなかでもひときわ抒情的で牧歌的なくだりです。

その一人(娘)に名前を問うと「かさね」と応え、その優美で風情のある名に感じ入った曾良が詠んだ句が、

かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名成(なる)べし

で、芭蕉の館にその句碑があります。

芭蕉自身も「かさね」という名がよほど心に残ったようで、後年、知人から名付け親を頼まれた際に、その由来とともに、この名を授けています。
これはその野夫から借りた馬に跨って那須野が原を往く芭蕉と曾良の像で、やはり芭蕉の館にあります。したがって、馬上の人物は西遊記の三蔵法師ではないので念のため(笑)。
黒羽では、芭蕉の門弟で、黒羽藩の城代家老でもあった浄法寺高勝(桃雪)と、その弟の豊明(翠桃)のもとに14日間にわたって逗留しました。白河越えを目前に控えて、蕉門連衆との旧交を温めながら山紫水明を愛で、しばし旅塵を落としたものと思われます。ちなみに、14日間というのは、「奥の細道」で1箇所の滞在期間としては最長で、地元が「芭蕉の里」としてPRに力を入れる所以でもあります。
那珂川といえば鮎でも有名で、今年は6月1日から解禁になったので、帰途、「黒羽観光やな」に立ち寄りました。

天然物の鮎は年々漁獲量が少なくなっているため、やな場の食事処で出される鮎でも、ほとんどは養殖物だそうですが、そもそも天然物の味を知らない管理人には、たとえ養殖物であっても、川風に吹かれながら焼きたてを頬張れば、気分はじゅうぶん天然物です。

塩焼きが2匹出てきたのですが、これなら4〜5匹でも軽くいけそうです。

那珂川に竿を振る釣り人達
今回はアジサイを写材にしておきながら、話は黒羽町や松尾芭蕉に終始し、案の定、いつの間にか「奥の横道」に迷い込んでしまいました。お詫びのしるしに(?)、管理人も一句……
木下闇紫陽花こぼれ杉木立 (管理人)

( これって「季重なり」……ですか?) 

ご無礼しました。今回号はこれでおしまいです。