(2005.5.1)


   

 

   

今回は阪急交通社のツアーに参加して長野から新潟まで進出してきました。北向観音(別所温泉)→更埴のあんずの里→善光寺→高田の夜桜(ソメイヨシノ)→高遠のコヒガン桜を2日間で巡るという強行軍でしたが、このうち、あんず・ソメイヨシノ・コヒガン桜を主題に「花ひらく信越の春」と題してご覧いただきます。


例年は、先ずあんずが咲いて、次にソメイヨシノが咲き、最後にコヒガン桜が咲くそうですが、今年はどういう加減か一斉に開花する展開になり、お陰で各地で満開の花を存分に堪能することができました。そのうえ、好天にも恵まれて、「こんな幸運は滅多にないな…」と思えるくらい充実した撮影行となりました。
秩父山地を源流とし、佐久平から上田盆地を流れてきた千曲川が、善光寺平へ向けて大きく右にカーブを切るあたりが更埴(こうしょく)という所で、北国街道の宿場町として古くから交通の要衝として栄え、現在も上信越自動車道と長野自動車道が合流する更埴ジャンクション設けられています。

ちなみに、更埴(市)は平成15年9月に近隣の2町と合併し、現在は千曲市という名前になっています。例によって話が横道に逸れましたが、あんずの里はその千曲市更埴の森・倉科地区の山里5キロ四方にわたって拡がる一帯で、4月上旬から中旬にかけて一斉に開花し、あたり一面を淡いピンク色で包みます。

その数は「一目10万本」ともいわれ、春おそい信州に桜よりひと足先に春を告げる花として親しまれ、「あんずまつり」も今年で50回を数えています。また、花季が終わった後は、6月下旬から7月にかけて、「あんず狩り」が行われ、観光資源としても「二度美味しい」花ということができます。

ガイドブックなどには「民家の蔵や崩れかかった土塀などが古き時代を伝えている」とあったので、あんずの花の背景にいいな、と思っていたところ、実際は立派な構えのお宅ばかりで、すっかり目論見が外れてしまいました。写真を撮る方の勝手な希望としては、もっともっと土塀が崩れてほしいところですが…。(笑)

更埴にあんずがもたらされたのは、江戸時代(寛文13年)、伊予宇和島藩主伊達宗利公の息女豊姫が、第3代松代(まつしろ)藩主真田幸道公に輿入れの際に故郷を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したのが始まりで、その後、藩がこれを特産品として奨励・普及した結果、今日の姿になったといわれています。

はるばる宇和島から15歳で嫁いできた幼い姫君ゆかりの花木を、大切に守り育ててきた人々の優しい心根に感銘をうけました。ちなみに、この縁で千曲市(旧更埴市)と宇和島市は姉妹都市になっています。

南西から北東にかけて斜めに細長く伸びる新潟県は、佐渡を除く部分を3つの地方に分けて、南から(すなわち京都に近い方から)上越・中越・下越と呼ばれていて、それぞれの中心は上越市、長岡市、新潟市になります。

次にご覧いただく高田城の夜桜はその上越市にあります。「上越市なんて知らんぞ」と仰る貴兄、ごもっともです。直江津市と高田市が合併してできた市なのです。とはいえ、最近の町村合併ではありません。ずいぶん昔(昭和46年)のことですが、地理にかけては人後に落ちない管理人もよく知りませんでした。(汗)

高田は松平忠輝公60万石の城下町として栄え、また明治に入っては旧陸軍第13師団が設置され、軍都として栄えた町です。高田城の桜は明治42年に13師団の兵営を記念して、在郷軍人会が2,200本の桜を植えたのが始まりで、現在、城内には3,400本の桜の木があります。

桜の時期にはライトアップされた三重櫓とぼんぼりの灯りが、お堀の水面に映えて華やかな雰囲気に包まれ、春を待ちかねた市民はもとより、県外からもから多数の観光客が訪れて賑わいます。ちなみに、高田城の夜桜は、弘前城(青森)・上野公園(東京)とともに日本三大夜桜いわれています。

諏訪湖を源に発する天竜川が浜松へ向けて下る川筋が伊那谷で、高遠はその伊那谷の信州側の入口を扼する要衝にあたります。このため、武田信玄が伊那進出ための、ひいては上洛のための拠点として、古くからここにあった高遠城を本格的な山城として改築したのがはじまりといわれています。

信玄亡き後、織田信長勢の攻勢をうけて高遠城は落城、その後、徳川の時代に入ると京極・保科・鳥居といった諸大名が交代しましたが、最後は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えました。保科正之は徳川秀忠の息子で名君として誉れ高く、また、内藤家の江戸屋敷は現在の「新宿御苑」になっています。

明治の廃藩置県で高遠城が取り壊された後、これを公園として整備する際に、荒れ果てたままになっていた城址に、旧藩士達が桜の馬場にあった桜を移植したのがはじまりです。その後の補植も同一種類のものに限られ、樹齢百年を超えるものを含め、今では1,500本に及ぶ大木が城趾を埋め尽くしています。

この桜はタカトオコヒガン桜という種類(高遠固有種)で、やや小振りで花色が濃く、とても可憐な花形をしています。長野県の天然記念物に指定され、平成2年には日本さくらの会選定の「さくらの名所100選」にも選ばれている名木です。

高遠城は丘陵上に築かれた山城で、桜の時期ともなると、丘全体が満開の桜で盛り上がるように見えるといいます。花木の数もさることながら、花弁の密度が非常に濃いため、満開の園内はさながら桜のトンネルで、「天下の銘桜」の呼び名に恥じない圧巻です。

下の写真は桜に埋まる桜雲橋と問屋門です。桜の枝が欄干まで垂れ下がり、まさに「桜花爛漫」といったところです。花の具合も光線の具合もこれ以上の条件はないといった場面で、(大袈裟ですが)写真ファン冥利に尽きます。ここは写真集で必ず見かける、しかしどうしても撮っておきたい、シンボルポイントです。

下の写真は桜越しに残雪の木曽駒ヶ岳(中央アルプス)を望むところです。南方には南アルプス(仙丈ヶ岳方面)も望むことができ、信濃路の春を実感することができます。

高遠といえば、絵島生島のことに触れないわけにいかないので、ちょっとだけお付き合い願います。そもそもは大奥女中の絵島が歌舞伎役者の生島新五郎と懇ろの仲になったというだけの話ですが、将軍のお世継ぎ問題に絡んだ勢力がこれを奇貨として大奥の大粛正にまで発展させた「事件」です。

絵島は高遠に、生島は三宅島にそれぞれ遠流され、当時33歳の絵島は仏門に帰依し、61歳で亡くなるまで28年間、ここでひたすら精進の日々を送ったといわれています。その絵島が押し籠められた「絵島囲い屋敷」というのが再現・公開されていて、満開の桜の下にひっそりと佇んでいます。(下の写真)

絵島は格子で厳重に囲まれた一室(右上の写真)から出ることを禁じられていたそうで、屋敷を囲む板塀にも物々しい忍び返し(右下の写真)がつけられ、流刑生活の厳しさを物語っています。ちなみに、高遠町と三宅島村はこの縁で姉妹都市になっているそうですが、姉妹都市というにはちょっと切ない縁のような気もします。

最後に高遠観桜の秘訣と留意点(←大袈裟ですが)を申し上げます。繰り返し書いている通り、桜は花季が短いため、短期間に猛烈な数の観光客が谷あいの小さな町に殺到することになります。今年は11日(月)が「開花」で24日(日)にはもう散ってしまったので、見頃は16日(土)〜17日(日)の週末に限られました。

ちなみに、今年は延べ40万人が訪れたといわれています。よけいなお節介ですが、入場料だけで500円×40万人=2億円になる計算です。(失礼)

冒頭にも書いた通り、管理人は阪急交通社のツアーで17日(日)に訪れましたが、添乗員の話では、阪急交通社の関東地区だけで、この日60数台(!)のバスが高遠に入ったそうです。日帰りツアーで他所に寄ってから高遠へ回ってくるような悠長なことをしていると、明るいうちにたどり着けないこともあるそうです。(怖)

そこで、マイカーで行かれる場合は、夜中に出発して未明に現地到着し、昼過ぎには撤収するのが理想です。ツアーに参加される場合は、できれば1泊2日のツアーで、2日目の早い時間に高遠へ直行するコース、日帰りツアーの場合は、できるだけ早い出発で先ず高遠へ直行するコース、を強くお薦めします。

ま、それだけ苦労しても一見の価値があるということですが、来春の観桜の参考になれば幸いです。