(2005.4.17)


   

 

   


埼玉県の東部、利根川を挟んで茨城県と接する所に幸手市という所があります。幸手と書いて「さって」と読みます。(幸手の皆さんには申し訳ありませんが)ご存じない方は、東武動物公園の近くと思ってください。今回はその幸手市にある権現堂堤の桜を取材してきましたのでご覧いただきます。大体の場所は右の地図を参照されてください。
利根川は関東平野を南東に突き抜けて銚子で太平洋に注ぐ我が国有数の大河ですが、その流路は時代とともに大きく変遷してきました。近世以前の利根川は鬼怒川・小貝川とは水系を異にし、埼玉平野を幾条にも分かれながら、(元)荒川、隅田川を経て東京湾に流れ込んでいました。

その後、江戸開府とともに幕府が新田開発と洪水防止のため利根川の大改修に着手、各地で河川の開削と付け替えを行い、60年にわたる難工事の末に、それまで東京湾に流れていた利根川の流水を太平洋へ導くことに成功しました。世に言う「利根川の東遷」がそれです。

権現堂川はこうした一連の改修工事のなかで掘削された川で、当時は利根川本流の一部として、栗橋から五霞の南を流れ関宿で江戸川に合流する流路でしたが、現在の権現堂堤の付近にあった屈曲点で幾度となく決壊し、その被害は遠く江戸にまで及んだため、「権現堂堤」は江戸水防の要として永らく大切に維持・管理されてきました。

余談になりますが、この付近では今でも権現堂川が県境になっていて、対岸の五霞町は(現)利根川の右岸ですが、茨城県(猿島郡)になります。このように旧流路が現在も県境になっているために県境が対岸まで「越境」しているケースは各地にあって、利根川の下流でも取手市の一部(茨城県が右岸に越境)や、佐原市の一部(千葉県が左岸に越境)などにみられます。

その後、利根川の付け替えに伴い権現堂川は漸次その役目を終えて廃川になりましたが、大正時代に入って堤防上に6qにわたって約3千本の桜が植えられ、戦前は桜の名所として大変な賑わいを見せたようです。東武浅草から幸手まで臨時電車が運行されたという記録もあります。

太平洋戦争の末期には薪材として伐採されたため、昭和24年に千本のソメイヨシノがあらためて植樹され、現在それが成長して見事な桜のトンネルになり往時を偲ばせています。また、かつての河岸には菜の花が栽培され、桜の淡いピンクと菜の花の黄色が絶妙のコントラストを見せて、訪れる人の眼を楽しませています。

…と言うことで、今回はウンチクを最初に済ませておきましたので、この後はどうぞごゆっくり写真をご覧下さい。(笑)

狭い場所に大変な人出で花も人も満開といった感じです。なかにはラジカセ持参で歌謡ショーを始めるおじさん(下の写真=たぶん素人)も現れて大変な騒ぎです。このひとは酔客からご祝儀をもらって、アンコールに応えたり記念撮影に応じたり、大忙しでした。

下の写真の場所は、午後は逆光になるので午前中がお薦めです。また、午後は大変混雑するので、とにかく午前中の早い時間帯がお薦めです。
日曜画家のグループも見かけました。なかでも、この人がいちばんお上手で、たくさんのギャラリーを集めていました。