(2004.11.14)


   

 

 

『大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡(ごおり)萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里に跨がる難所がそれである。』

…と、有名な長編小説「大菩薩峠」(中里介山作)の書き出しで始まってしまいましたが、大菩薩峠は小説の題名で知っていても、実際の場所は知らないという方が多いと思います。何を隠そう、管理人もその一人でした。

かつて、武州(東京方面)から甲州(山梨)へ入るには、甲州街道で笹子峠を越えるのがメインルートで、現在の中央高速も、国道20号線も、JR中央線も笹子峠を長いトンネルで抜けています。

これに対し、東京側の青梅から大菩薩峠(標高1,897メートル)を越えて、山梨側の塩山に至るのが甲州裏街道といわれるルートで、現在の青梅街道が略々これにあたります。

その後、明治になって奥多摩を経て柳沢峠(標高1,472メートル)を越えるルート(現在の国道411号)が開削・整備されるにつれて大菩薩峠はその役目を終え、今では主峰の大菩薩嶺(標高2,057メートル)とともに、首都圏の手軽なハイキングコースとして人気を集めています。

今回はその大菩薩峠と麓の竜門峡(東山梨郡大和村)周辺の紅葉を取材したのでご紹介します。


大菩薩峠直下の上日川峠(標高1,590メートル)という所まで車で行けるので、1時間強の登りで峠に立つことができるのですが、日頃運動不足の身体にはそれでもきつくて息が上がります。峠の頂上は馬の背のような尾根になっていて、左側(東京側)へ流れ落ちた水は多摩川となって武蔵野台地を潤して東京湾に注ぎ、右側(山梨側)へ流れ落ちた水は日川から笛吹川となって甲府盆地を流れ、盆地南縁の鰍沢(かじかざわ)で釜無川に合流して富士川となり駿河湾に注ぎます。正面の山小屋は介山荘といい宿泊もできます。

尾根道をさらに1時間ほど北方へ辿ると「大菩薩嶺」に至ります。大菩薩嶺は深田久弥の日本百名山に名を連ねていて、皇太子殿下・雅子妃殿下も2002年9月に登頂されたことを麓の山小屋で知りました。

この尾根道は眺望が抜群で、大菩薩嶺を背にして正面(南側)にはカラマツ林の向こうに雄大な裾野を引く富士山を望み、右手(西側)には南アルプスを背景に塩山や甲府の市街を眼下に望む、といった具合です。
大菩薩峠からさらに南方へ笹子峠に連なる山塊は「南大菩薩連嶺」と呼ばれ、そこから眺めた富士山が五百円紙幣(すっかり見かけなくなりましたが)の裏面に印刷された景色です。
左下の写真は大菩薩峠へ向かう途中にある「福ちゃん荘」という山小屋で、皇太子殿下ご夫妻がここで休憩されたそうです。また、右側の石碑は大菩薩峠の尾根道にある中里介山の文学碑です。

東山梨郡大和村というのは笹子トンネルを抜けた所にある山村で、JR中央線の甲斐大和が最寄り駅になります。余談ですが、この駅は昔は「初鹿野(はじかの)」という風雅な名前でしたが、町村合併を先取りして(?)、平成5年に「甲斐大和」と改名されてしまいました。地名だけでなく駅名も由緒あるものがなくなるのは残念です。さらに余談ですが、この駅の周囲は桜の名所で、春ともなると桜のトンネルを列車がくぐり抜けていきます。

大菩薩峠に端を発する日川が大和村を下る辺りが竜門峡と呼ばれる渓流になっていて、ちょっとした紅葉の名所になっているので、峠からの帰途に立ち寄りました。

「ちょっとした」というのは、同じ山梨でも昇仙峡や西沢渓谷ほど大規模ではなく、知る人ぞ知るといったところです。また、ここはブナやミズナラといった雑木が中心のため紅葉というより「黄葉」が大半です。
また、大和村は織田・徳川軍に敗れた武田勝頼が最期を遂げた武田家終焉の地で、竜門峡近くの天童山景徳院には一族の墓がひっそりと佇み、甲斐国主武田家の悲しい歴史を今に伝えています。